「沙羅さま、ですね? いらっしゃいませ」
そう言って優しく微笑む青年の姿をぼんやりと眺めながら、彼女……鈴鹿沙羅(すずか さら)は内心なるほど、と納得していた。どこにでもあるような平凡なマンションだ。当然、建てつけてある扉だって、飾り気のない…といえばまだ聞こえはいいが、実際は味気ないデザインのもので。ただ、そこから現れたその人物だけが浮き上がるかのように別の空気をたたえていた。人にはありえない、深い海の色をした髪。舞台衣装でもなかなか見ないような白いロングコート。そして投げ掛けられた声は柔らかく包み込むような優しいテノールだ。沙羅は、その声の主を知っていた。これは、VOCALOIDシリーズの、KAITOだ。
どこかワンテンポずれている自分なんかよりは何回転も循環が早いような質の親友から、ぜひぜひ見せたいものがあるから家に来てほしいと言われて、何事かと思ったけれど。まさかその呼び出した本人に会う前に要件が分かってしまうとは思いもよらない展開だった。
「いらっしゃーい!早かったね、サラ!」
そこでようやくひょっこりと彼の後ろから顔を出したのは沙羅をここに呼び寄せた張本人だ。わくわく、と顔に書いてあるという現象を体現しているかのような彼女に、まぁまぁ入ってよ、と促される。言うだけ言ってスキップしながら室内に戻っていく親友の後ろ姿を眺めながら、今日は長くなりそうだなーなんて漠然と考えていたら、目の前に残っていたKAITOが苦笑の表情を浮かべて、どうぞ入ってくださいと言った。
彼女は沙羅とかれこれ中学生時代からの古い付き合いになる貴重な友人だ。名を天霧 真優(あまぎり まや)という。マイペースでどこか周りに置いていかれがちな沙羅を引っ張り、時に振り回すような形になることもあるが、これが所謂凸凹コンビというやつなのか、絶妙の関係で今まで仲良くやってきている。時折こうして突発的な行動力を発揮してしまうのが、まぁ、良くもあり悪くもあるのだが。そのへんは昔馴染みからの慣れもあり今更どうこう思わなくはなっている。
さて、ロボット工学の進歩というものは目覚しいものがあり、作業に特化した産業用ロボットが活躍する一方、より人間とそっくりなものを作り出そうとする動きもあった。その完成形の一つが、あのVOCALOIDシリーズのアンドロイドだ。以前からパソコンソフトとしてのVOCALOIDは存在していたが、その歌唱という用途からより人間に近いことを望まれるが故に、同じ方向性を目指していたアンドロイドと相性がよかったのだろう。人が行うには困難な作業を代わりに行い身体的にサポートしてくれているのが産業用ロボットとすると、アンドロイドは人間と信頼関係を結び共に生活することを目標にしているのかもしれない。
「ちょっとサラー?違うこと考えてるでしょ。」
「そんなことないよ、ちょっと眠くなってきただけ。」
彼女の部屋に招かれてから一体何時間経っていると思っているのか。もうすっかり日は暮れている。確かに興味深い対象ではあった。例えそれが何の惚気話だろうかというような内容であったとしても未知の世界であったことは確かだ。大きく話題になっているだけに、存在自体はもちろん知っていたし興味もないとは言い切れなかった。ただ遠い存在だっただけだ。何せ一般に流通しているといってもなかなかのサイズの機械類だ。安いわけがない。鈴鹿沙羅、23歳。何とか仕事にはついて給料ももらっている身ではあったが、自分に投資できる金額はさほど多くはない。自分とは縁がない話しだと頭のどこかで思ってしまうことはどうしようもなかった。
第一、話し役の方は興奮しているだろうけれど、聞く側というのは案外気力を使うものである。沙羅が、そんな思いを込めて小さく抵抗を示すことができたのは、やはり相手が親友である彼女であったからだろう。全くもう、と唇を尖らせる真優。しかし次の瞬間には気持ちを切り替えたのか、ぽんと手を打って隣にいるKAITOへ視線を向けた。
「そうだ、カイト。退屈気味なお客さんのために一曲歌ってあげてよ。」
「!!はいっ!」
それまで穏やかな微笑みを浮かべながら真優と沙羅のやりとりを眺めていたKAITOだったが、マスターからの提案に顔を輝かせる。静かに控えていると、それは見目麗しい美青年であったが、そうやってキラキラとした表情をすると途端に幼い表情に……いや、寧ろ子犬じみた表情とすら言える顔をした。立ち上がった真優が壁際にあった本棚から無造作に楽譜を引っ張り出してくる。いくつかの楽譜を手にKAITOを見遣って
「どれがいい?」
そう問うた真優に、KAITOの落ち着いて凛とした、自信に溢れた声が答えた。
「マスターが決めてください。」
それは判断を委ねる言葉ではあったが、決して自己決定の意思がないというわけではなく、それこそを望んでいるのだと彼の表情が雄弁に語っていた。マスターの希望に答えたいのだと。望まれたものを喜んでもらえるように提供したいのだと。表情だけで、そんなにものを語れるものなのだと、沙羅は初めて知った。全幅の信頼とはこのことだろうか。彼はまだ、起動して間もない個体のはずだが主人に向ける信頼や忠誠は堅いものがあるようだった。
(なんか……いいなぁ。)
じゃぁこれね、と楽譜を渡されたKAITOが嬉々として中を開く様子を見守りながら、漠然とそう感じた。真っ直ぐに向けられる信頼。好意。曇のない瞳。純粋な言動。優しい声。真優と、KAITOの間に完成されている絆を、どこか羨ましいと感じた。
音楽が流れてくる。歌うことにした曲の伴奏のようだった。気持ちが晴れていくような、軽やかな旋律。真剣な表情で楽譜に目を落としていたKAITOだったが、歌いだしのほんの一瞬前、その唇が緩やかに弧を描くのを見た。
(うわ…ぁ…。)
KAITOから流れ出した歌声はとても機械とは思えないような、艶のある生き生きとした声だった。曲調によく馴染む華やかに飛ぶ声。何より、楽しそうに歌い上げるKAITOの姿に沙羅は目が離せなくなった。今更ながら、これがVOCALOIDなのか、と。
「いい歌い方するでしょ。」
KAITOの歌声を邪魔しないようにか、極限まで潜めた声が傍から聞こえる。見れば、真優が眩しいものを見るような表情で自分のVOCALOIDを眺めていた。言葉を声にすることに失敗して、沙羅はただ黙って頷く。あっという間に歌で世界を作り上げてしまったKAITO。その世界に引き込まれて唖然としているうちに、いつの間にやら曲は終わりを迎える。後奏が心地よい余韻を残して消えた瞬間、はっと我に返った。フルコーラスを完璧に歌い上げて満足そうな彼に、惜しみなく拍手を送る。素直に、いい声だと思った。さすがに歌うためのアンドロイドだ。確実に聴衆の心を揺さぶりにくる声だった。海色のアンドロイドが紡ぐ不思議な歌声は、沙羅の脳裏に鮮やかに焼き付いたのだった。
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