あれは、父さんの禁酒に付き合い始めて一週間ほど経った頃だっただろうか。私はあの日、家の壁に開いた穴の修繕をしていた。粗末な私たちの家は、ときどき修繕してやらないと住めたものじゃなかった。不満がないわけじゃなかった。でも、それ以上に誇らしさを感じていた。あの家は、民衆を第一に考える父さんの心を映し出しているようだったから。それだけじゃない。血の繋がりのない私、そしてアレンを男手一つで育ててくれた父さんの優しさと厳しさがあの家には詰まっていた。
修繕作業をしていると、ふとした拍子にある二文字が頭の中に浮かんできた。――酒。気付いたときにはもう遅かった。頭の中でどんどんその言葉が膨れ上がって、それ以外のことなんて考えられなくなった。どうしようもない不安感とイライラ。そして勝手に震えだす右手。みるみるうちに焦燥感は膨れ上がって、体を思いっきり掻きむしりたいほどの激情に囚われた。酒が飲みたい。でも今は禁酒中。だけど飲まないと落ち着かない。いやでも自分だけ破るわけには…。
悶々と葛藤しながら、気付いたら私は道具を放り投げて戸棚を物色していた。酒はないか、中をしらみつぶしに探していた、
「…うん?」
私の手が何か硬い細長い筒状のものに触れた。ガラスのような感触。これはもしや――!私はその何かを引っ張り出す。当たりだった。私の手に握られていたのは紛れもなくワインボトルだった。父さんめ。私に隠れてこっそり飲むつもりだったのね。言い出しっぺは父さんなのに…。しかも見るからにいつもの酒より贅沢そう。どれどれとラベルを見たとき、私は目をひん剥いた。
「はあ!?」
思わず変な声が出た。それはなんと、かの高級ワイン、ブラッド・グレイヴだった。どうしてこんなものが家に…。まさか、王宮で誰かから貰ってきた?…いや、そんなわけない。私はぶんぶんとかぶりを振った。貴族なんてみんな自分さえよければいい身勝手な奴らばかりだ。気前よくワインをやる輩なんているわけない。…となると答えは一つ。私の手はさっきとは別の理由でわなわなと震えていた。
「父さん…買ったのね。」
頭に血がみるみるうちに昇ってきて、ボトルを握る手には一層力が入った。何よ。飢えてる民衆のために禁酒だなんて言っといて、自分はこんなワイン買ってきて!気付けば酒を飲みたい衝動は吹っ飛んでいた。
(――帰ってきたら問い詰めてやるんだから!)
怒りと悔しさでジッとなんてしていられなかった。鬱憤を晴らすため、私は家を飛び出し、ずんずんと地面を踏みしだきながら街を歩いた。
気が付けば私は市場まで来ていた。例年と比べて活気がなく、人影もまばらだった。今年の作物の不作はいつにもまして酷かった。ちらりと辺りを見回せば、道端に力なく蹲る、ガリガリに痩せ細った人の姿があった。割を食うのはいつだって民衆。作物が不作だろうとなんだろうと容赦なく搾取される。それもこれも全てアイツのせいだ。国のことなんてまるで考えちゃいないあの王女、いや、悪ノ娘の――
「アネさん!?」
聞き覚えのある頓狂な声に私は現実に引き戻される。振り返ればメイド服を着た赤髪の知人が目を丸くしていた。
「シャルテット!」
驚く私のもとにシャルテットは猛スピードで駆けてきた。シャルテットは王宮でメイドをやっている身。こうして街中で会うことなんて滅多にないことだった。シャルテットはじいっと探る用な目を私に向けた。
「アネさん、怒ってます?」
「いや、別に…。」
私は目を逸らしながらはぐらかした。
「それよりアネさん、聞いてほしいっス!」
そう言ってシャルテットは頬を膨らませてグチを零し始めた。調度品を壊した罰でお使いさせられてることから始まり――こればっかりは自業自得な気がするけど――、メイドの仕事の不満、終いにはリリアンヌ王女の文句に発展した。これ、王宮の誰かが聞いてたらタダじゃ済まないんじゃ…。心配になってシャルテットを止めようとしたそのとき。
「王女に諫言できるのは親衛隊長くらいっスよ。飢えてる民衆のために贅沢をやめろっていつも王女に怒ってるっス。」
私はそのとき、なんてバカだったんだろうと自分の浅はかさを恥じた。父さんに限って、自分一人だけ贅沢するなんてことあるはずないのに…。それから私たちはもう暫く会話して、シャルテットが立ち去ろうと背を向けたそのとき。
「あ、待って!!」
私が慌てて呼び止めると、シャルテットは振り返って首を傾げた。
「アレンは…元気にしてる?」
私はたまらず尋ねてみた。リリアンヌは自分が少しでも気に入らなければ臣下であろうと即ギロチンにかけるという噂だ。王女付きの召使をやってるアレンなら、リリアンヌと接する機会も他の使用人よりずっと多いだろう。私はそれがたまらなく不安だった。
「元気っスよ。リリアンヌ様に気に入られてるみたいで、それなりにやってるっス。」
「そう…。」
私はふうと胸をなでおろした。大切な弟があの王女に気に入られてるというのは面白くないけど、首が飛ぶよりずっとマシだ。
「シャルテット…気を付けてね。」
私はポツリと呟いて背を向けた。シャルテットは何も言わなかった。
その日の夕方、父さんは帰ってきた。すぐ王宮に戻らないといけないと急ぐ父さんを無理矢理引き止めて、私はワインのことを聞いた。父さんは含羞みながら答えて出ていった。私はその後ろ姿を微笑みながら見送った。
「父さんらしいや。」
私は、自分が成人した日のことを思い返していた。あの日父さんは。最初に飲むお酒だからって、普段は手が出せない高いワインを用意してくれた。父さんは少し不器用にコルクを抜いて、二人分のグラスにワインをなみなみと注いだ。赤に限りなく近い紫色のお酒。まるで宝石のように綺麗だった。恐る恐るグラスに口をつけて、そっと傾ける。程よい苦味と香り、弾けるようなアルコールの刺激が口いっぱいに広がった。その夜、私は父さんといろんなことを喋った。普段はなかなか話せないこと、照れくさくて言えないことまで何もかも。大切な人と飲むお酒は美味しい。あの日私は身をもって体験した。
私は椅子に腰をおろした。ブラッド・グレイヴはアレンのために用意したものだった。それもビンテージの特上だ。アレンが成人する日、ちょうど飲み頃になると父さんは言った。初めて飲むお酒、アレンはどう思うんだろうか。美味しい?不味い?どっちなんだろう。いや、それ以上に腹を割っていっぱいお喋りしたい。私の記憶の中でアレンはいつも不愛想な態度と冷めた目をしていて多くを語ろうとはしなかった。だからこそ聞いてみたい。アレンが何を思って、何を感じて生きてきたのかを。テーブルの上のワインボトルを眺めながら私は顔を綻ばせた。
あの頃アレンは王宮に住み込みだったし、父さんも王宮にいる時間の方が長くて、私は家に一人でいることの方が多かった。だからこそ、家族三人でお酒を交わすひとときを想像しただけでワクワクした。私もアレンも父さんと血の繋がりはない。アレンも血の繋がった弟ってわけじゃない。それでも、私たちは誰が何と言おうと家族だ。壁に開いた穴から漏れ入る夕日。赤く染まる家の中で、私は近い将来訪れるであろう家族団らんに思いを馳せていた。
それから五日後のことだった。父さんが殺されたのは。あんなに強くて優しかった父さんがどうして…。私はそれから数日間、一人になった家でおいおいと泣きはらした。父さんの思い出に縋るかのように、私は父さんの遺品を整理した。そのとき、たまたま目に留まったのはあのワインボトル。もう永遠に叶わなくなった三人での家族団らん。それを思うと胸が張り裂けそうで、私はボトルを戸棚の奥の奥に封印した。私の父さんを奪った犯人。誰かなんて考えるまでもなかった。王女だ。あの悪ノ娘が手を回したに決まっている。私は復讐を決意した。
王女に不満を持つ人間は私だけじゃなかった。王女を倒すため共に戦う仲間が少しずつ集まっていった。そんなとき、好機はやってきた。
革命の決行日前日。迷いの森のアジトに行く前に、私は父さんの鎧の前で静かに目を伏せた。
(父さん…私、絶対敵は討つから。)
当分ここには戻ってこない。次に戻ってくるのは王女を討ち取ったときだ。私は行く。仲間のため、国のため、そして、家族のため。…家族?
そのとき私は思い出した。父さんが遺したのは鎧だけじゃない。もう一つあったんだって。戸棚の奥の奥にしまい込んだワインボトル。戸棚をひっくり返す勢いで中のものをかき出して、ワインボトルを引っ張り出した。ボトルを眺めながら、私はもう一人の家族に思いを馳せた。アレン、今まで王女のそばで大変だったでしょう?それももう終わり。ルシフェニアが平和な国になったら、二人で一緒に飲みましょうね。父さんが遺してくれた、このブラッド・グレイヴを。私は名残惜しさを覚えながら、家を後にした。
革命は見事成功した。でも、そこに達成感も喜びも何もなかった。怒号が飛び交うミラネ広場の真ん中にそびえ立つ断頭台。そこから民衆を見下ろすのは、王女の身代わりとなった彼女の双子の弟であり、そして、私のたった一人の弟。おぞましい処刑道具がアレンの命を摘み取る瞬間を、私はこの目で見届けた。
革命の後に残ったのは孤独だけ。あの革命で私は、かけがえのないもう一人の家族までも失ってしまった。アレンの最期を見届け、呆然としたまま家に戻った私の目に飛び込んできたのは、父さんの遺したワインボトルだった。途端に、とうに枯れたと思っていた涙が一気に込み上げてきた。一人になった家の真ん中で、私はおいおいと音を上げて泣いた。
できることなら捨ててしまいたかった。ひとりぼっちになった現実を突きつけられるような気がして、プレゼントする人もされる人もいなくなったこのお酒を見るのも飲むのも嫌だった…でも、捨てるなんてことはできなかった。だってこのお酒には、父さんの想いが詰まっているから。それを捨てちゃうなんて、私にはできなかった。結局私は、目に触れない場所に封印することにした。
私はひとりぼっちになった現実から逃げるようにしてシャルテットと旅に出た。孤独を埋めるように旅先では安酒をひたすら飲んだ。飲んで飲んで、最後には酔い潰れて。夢にはいつも父さんとアレンが出てきた。そして、二人は私を置いて行ってしまう。待って、行かないで!そう叫んでも伸ばした手は空を切るだけだった。
それから五年後、奇跡が起こった。一連の騒動の黒幕を追い詰めた海岸。そこで私はアレンと再会した。既に死んだ人間に会うなんてこと、あるはずがない。でも私は確かにあの子の声を聞いた。確かにあの子に支えらえた。逃げる黒幕めがけてレイピアを投げる瞬間、満身創痍の私の体を支えてくれたのは、紛れもなくアレンだった。
―――――
いけない。ついつい昔に浸り過ぎてしまった。やっぱりこれを見るとどうしてもいろんなことを思い出してしまう。父さんの遺したブラッド・グレイヴを見ると。私は今日、家の奥にしまい込んでいたこのワインを数年振りに引っぱり出した。そして今、それは二つのグラスと共に並んでいる。海岸から坂を登ったところにある、修道院の客室のテーブルの真ん中に。
今日は本当ならアレンが成人する日だった。それはつまり、アレンの“双子の姉”が成人する日でもある。
「失礼します。」
ノックと共に、修道服を身に纏った白髪の女性が恭しく入室する。クラリスだ。今はここのシスターをやっている。本来は修道女が酒を飲むことは禁止されている。でも、事情を話すと、しばし迷いながらも「今回だけなら」と首を縦に振ってくれた。
クラリスの背中には、怯えた表情でピッタリと張り付いている少女の姿があった。彼女はここの見習い修道女だ。吸い込まれるような澄んだ青色の瞳と、さらさらと綺麗な金色の髪。彼女にアレンの面影が重なる。
少女はやがて、覚悟を決めたようにクラリスの背中を離れる。その表情は恐れているようで、それでいて瞳の奥には確固たる覚悟を秘めているようでもあった。
「そんな顔しないで。今日はあなたの成人祝いで来ただけだから。」
私は優しく語りかける。金髪の少女は恐れとも覚悟とも取れるその表情を張り付けたまま、無言で私の前の席に座った。クラリスは私たちを心配そうに暫く見守ったのち、そっと退出した。
私はワインのコルクを抜こうとコルクスクリューに手を掛ける…が、意外に難しい。こんなもん力づくで引っこ抜きゃあ終いと思っていたのに、案外そうもいかない。
「あの…私が開けます…。」
金髪の少女はおずおずとワインボトルを受け取る。彼女も手こずっているようだったけど、割とすんなりとコルクを抜いた。もしかしたら、“召使の弟”がワインを開封する姿を何度も見ていたのかもしれない。ふとそんなことを思った。
グラスにワインを注ごうとする彼女を、私は右手で制した。酒は祝う側が注ぐものだ。あの日、父さんが私に注いでくれたのと同じように。なみなみと注がれるワインは、その名前になるほどと頷けるほどに濃い赤色だった。さすが高級ワイン。注ぐだけで辺りに芳醇な香りが漂う。果実の酸っぱさも甘さも全部凝縮したような、えも言われぬ香り。彼女が一口飲んだとき、どんな反応をするんだろうか。美味しい?不味い?どっちだろうか。想像すると少しわくわくした。
確かに彼女を憎んでないと言えばウソになる。でも、だからといって復讐する気はもうない。そんなことしたら、身を賭して彼女を守ったアレンの選択が無駄になる。彼女には想いを引き受けてほしかった。父さんがワインに託した想いを、アレンが受け取るはずだった想いを。そして、私が伝えるはずだった想いを。
「それじゃあ…乾杯。」
グラスのぶつかる、カランという音が客室に響き渡った。
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ogacchi
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