覚えているのは、静かに続くノイズ音。
多くの音を知った今ならわかる。

あれは雨の音に、似ていた。



今日は散々だった。
依頼された仕事のために朝早くからスタジオ入りしたが
技術者の準備不足で作業が進まず、いつまでたってもマイクの前に立てなかった。
結局レコーティングは次回に持ち越し。
歌い手であるメイコは完全に入り損となってしまった。
仕方ないか、と思いなおして外に出れば突然の雨。
乗るはずだったバスは遅れていて、いつ来るかもわからない。
不機嫌の元がこれでもかと重なってくる。
途中で買い物をする予定であったが、こんな調子ではきっとさらに
嫌なことが起こりそうだ。
メイコは諦めてタクシーを拾った。


急に崩れた天気のせいで道路は渋滞し、余計にイライラがつのる。
何も産まない1日がむなしく過ぎていくのが腹立たしい。
しずくの伝うタクシーの窓を眺めて、メイコはため息をついた。
タクシーのラジオからは雨に似合うしっとりとした歌が流れている。
メイコもよく知っている歌だ。
先月リリースされた彼の新曲。
伸びやかで、自由な声。空とも海ともつかないほどの深い深い声。
ぎざぎざにささくれだった気分が、少しだけ楽になる。
それが無性に悔しくて、少しだけだ、とメイコは自分に言い聞かせた。

雨の冷気に冷やされて、少し湿った自室。
空調のスイッチを入れて、メイコはソファに体を落とした。
外では未だに雨が降り続いている。その音がかすかに聞こえていた。
絶え間なく続くその音に誘われ、自然目を閉じる。
懐かしい音だ、とメイコは思う。
いつ、どこで聞いたかわからない。だけど懐かしい。
もしかしたら生まれる前に聞いたのかもしれない。
そんな非現実的な考えが、自分でも少しおかしかった。
彼に話したら何と言うだろうか。
きっと大真面目に生物の根源は水から産まれた、なんてことまで言い出すだろう。

(女はそんな答え、望んじゃいないのに。)

しかしメイコは自分の想像に満足した。
女の望まない、的外れな回答。それこそがカイトだ。
それこそがメイコの知る、カイトだった。



夢を見た。
雨に誘われるまま、狭いソファで眠ったせいだろう。
メイコはひどく嫌な夢を見た。
真っ暗な場所で、ひたすらにノイズの音が聞こえ続ける。
曲でも歌でもない、雑音。
歌うことも、耳を塞ぐこともできない。
ただただ不安で、孤独な嫌な夢。
目覚めたときには、全身が汗で濡れていた。
時間にしてはいくらも眠っていない。
メイコは時計を改めてから、重い体を起こした。

「あいたた・・・」

頭の奥が鈍く痛み、思わず声が出る。
中途半端に眠るといつもこうだ。
こんな時には、いくらでも昼寝ができるというカイトがうらやましくなる。
台所に向かう途中で、部屋の明りを点けた。
部屋に残る暗い夢を消したかったのかもしれない。

シンクに置いたままのグラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。
冷たい感覚が喉を通っていった。
体中に染みこむ水分が心地よかった。
それでも、頭に残る鈍痛とこびりついた悪夢の残骸が
メイコにため息をつかせる。
気を抜くと、夢の中のノイズ音がまだ聞こえるようだった。
台所の窓を開けて、外を見ると雨が続いていた。
むしろどんどん勢いは増していて、地面を打つ音が大きくなっている。
上空では空が不穏に鳴っていた。
雷を怖がるようなことはなかったが、それでも嫌なものだった。


ピンポン


不意に思考を切り裂く呼び出し音。
メイコは飛び上がる程に驚いた。
孤独でつぶされそうだった部屋に、突然の異音であった。
宅配かと思い、メイコは急いでインターホンの受話器をあげた。

「はい」

「めーちゃーん、あけてー」


カイトだ。
間延びして、のんきな声。
間違えようもない。

思わず受話器を取り落としそうになり、メイコは慌てた。
何も驚くような相手じゃない。
むしろ、一番気楽な相手のはずだ。
そう、そのはず。
だけど、どうして。

こんなに嬉しくなっているのだろうか。


「どうしたの?」

「遊びにきたんだよ?」

「この雨の中?」

「うん、とりあえず入れてー」


メイコは慣れた手つきでロック解除のコードを入力した。
玄関のドアが何度か音を立て、開閉可能になる。
ぎゅう、と胸の奥が縮んだ。
雨の音を従えて、彼がいる。


玄関へと続く狭い廊下。
見慣れた光景、その中にいる見慣れた男。
こんな風に家に来るのは本当にいつものことだった。
週の半分はこうしてやってきている。
そう、だから、何も特別なことなどないのだ。
ない、はずなのに。

「雨、すごいねえ。めーちゃん今日仕事だったっけ?大丈夫だった?」


カイトのしっとりと濡れた青い髪が、ぺたりと額に張り付いていた。
髪と同じ、愛用の青いマフラーも水を吸って重たそうだ。

「待って、今タオル持ってくるから」

「大丈夫だって」

「いいから」

カイトの顔を見ていられず、メイコは足早に洗面所に駆け込んだ。
鏡に映った自分の赤い顔には気づかないふりをして、渇いたタオルをカイトに手渡した。
そのまま、暖かいものを入れると言い訳をして台所に避難する。
薬缶を火にかけて、彼用のコーヒーカップを取り出す。
海の絵が深い青で描かれている。
いつか2人で出かけた雑貨屋で見つけたものだ。
当たり前のように、メイコの家に置いてある。
同じように、赤い色のカップがカイトの家にもあった。

「俺、紅茶がいいな」

「ッ!!」

急に、耳元で響いた声にメイコは体を震わせた。
いつのまに台所に来ていたのか。
頭にタオルを被ったままカイトがすぐ隣に立っている。

「紅茶ある?」

「え、ああ、紅茶、紅茶ね、大丈夫、あるわよ」

メイコはカイトに背を向けて、戸棚を開ける。
紅茶の缶を取り出そうとしたそのとき、今度こそメイコの心臓は飛び出しそうになった。
雨と悪夢に冷えた体が一瞬で熱くなる。
腰に回された骨ばった二本の腕と、背中に密着する体温のせいだ。
じわ、と彼の体に付いた雨粒がメイコの肌に染みた。
水の匂いがする。

そのとき、メイコは唐突に理解した。
彼は、水だ。
空に生まれる雨、海を満たす波。
そのどれもが彼に近い。
だからこそ彼の声はどこまでも伸びやかで自由なのだ。
大地に染みこむ雨のように自分を満たす。
渇いて、ひび割れた土が水を注がれて喜んでいる。
それが、自分だとメイコは気が付いた。


「・・・ちょっと」

「うん?」

「何してんの」

「いや?」

「動きにくい」

精一杯の虚勢をはって、メイコはぐいと首をひねった。
間近にカイトの顔がある。
その距離に少しひるんだが、ここで負けるわけにはいかなかった。
水が流れるのにすべて任せて、のまれるなんてメイコには我慢がならない。

「服、濡れちゃうんですけど」

「俺、洗濯するって」

「あのね、」

ぐ、と抱きしめる力が強まり、メイコはそれきり口を聞けなかった。
カイトのそれに唇を塞がれていた。
ひんやりと冷たい彼の唇が、メイコの体温で次第に暖かくなっていく。
メイコ自身もそれに気が付きたまらず目を閉じた。


まったく、今日はなんて日だ。


外の雨の音は一層大きくなっている。
遠い記憶の底にあるノイズ音に似ていた。
暗く狭いどこかで聞いていたのかもしれない悲しい音。

ああ、だけど。

これはノイズだけじゃないとも気づいてしまった。
雨の音は、つまり水の音。
自分がどこにいても、何をしていても届く。
自由に届く水の音だ。
肌に、体に、すべてに染みこんで満たしていく。

そしてメイコは振り切れそうな意識の隅で考える。



雨が、やまなければ良いのに、と。





ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

雨音(カイメイ小説)

カイメイ処女作。
いろいろすいません…。

閲覧数:1,326

投稿日:2011/01/17 19:42:13

文字数:3,207文字

カテゴリ:小説

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