――俺の最初の記憶は『歌』だ。
自分の声じゃない。透明で伸びのある、生命力に溢れた、誰かの歌声。
俺はマスターの元へたどり着く前から、この声に包まれて生まれるのを待っていた。
泣きたくなるほど愛しい子守唄。それが誰の声であるかは、目覚めた時にすぐにわかった。
「…こんにちは。気分はどう?」
ゆっくりと目を開けると、俺の目の前にいたのは一人の女性だった。
肩までの茶色い髪に、快活そうな大きな瞳。赤いミニスカートがよく似合うその人は、俺と目が合うとにっこり微笑んでくれた。
(…ああ、この人だ)
目覚めたばかりの俺はうまく機能できず、ただぼんやりと彼女を見つめる。刷り込みを受ける雛のように、じっと。すると、彼女の茶色い瞳が不安そうに揺れた。
「具合、悪い?」
「大丈夫だよ、メイコ。まだインストールしたてで起動しきれてないだけだ」
彼女と俺の居る部屋はスタジオのようなところだった。マイクが置いてあり、ガラス越しにはミキサールームのようなものが見える。そこに、一人の人物が入ってきた。
(この人がマスター)
瞬間的に本能的に理解した。この人が、これから俺に『歌』をくれる人。
「本当ですか?不具合とかじゃ…」
「心配性だなぁ。おまえも初めはこんな感じだったぞ?」
「…そうでした?」
「うん、そうでした」
マスターが笑って彼女の頭を撫でると、頬を赤らめ彼女が俯いた。信頼しあうマスターとボーカロイドの図のはずなのに、俺の胸の奥がチリ、と痛んだ。その理由はまだこの時は分かっていないのだけど。
彼女の頭に手をやりながら、マスターが俺を振り返る。
「…さて、はじめまして、カイト。俺の言葉が分かるかい?」
カイト。それが俺の名前。
こくんと頷くと、マスターが満足そうに微笑む。
「よしよし。大丈夫そうだな。…メイコ、自己紹介してごらん」
「はいマスター。…こんにちは、メイコです。あなたと同じボーカロイドよ」
メイコ。それが彼女の名前。
彼女の名前を呼んでみたい。
声の出し方なんてわからないはずなのに、唇が勝手に動いた。
「メ、イコ…」
まだ拙い俺の言葉に彼女は微笑む。再び見た笑顔にどきんと胸が跳ねた。
「そう、メイコ。よろしくね、カイト」
自分の名よりマスターの名より早く口にした彼女の名前は、差し出された手の温度と一緒に俺の中に永遠に刻まれることになった。まるで、大切な宝物を仕舞うように。
――もう、一目会ったこの瞬間から、彼女は俺の特別だった。
「ああ、こんなの歌ったなあ、懐かしい」
無事にマスターの元へインストールされた俺は、彼女に様々な場所を案内してもらった。今居るここは、今まで作成した楽曲が眠っている部屋。
俺はCDを手にはしゃぐ彼女の横顔に見とれながら、昨日のマスターの言葉を思い出す。
『カイトの声はメイコに合うように作られてるんだ。いずれデュエットでもしてみるか』
そうか、俺が生まれる前からずっと彼女の声を聞いていたのは、彼女に添うように調整されていたからか。
…ああ、じゃあ、惹かれるわけだ。
妙にストンと納得した。そして自覚した。なんていうかもう、恋に落ちていたのだ。
まさかボーカロイドとして初めてすることが恋だとは思わなかった。
「あ、あれはマスターが作った初めてのバラード」
「それはマスターが風邪引いてるときに作った曲でね」
「この時、マスターとちょっと喧嘩しちゃったの」
次々と語られる彼女のディスコグラフィー。イコール、マスターと彼女の思い出。
俺が来るまでの1年3ヶ月、二人きりだったのだから仕方ないとは言え、彼女の口から紡がれるのはマスターのことばかりだ。チリチリと感じる胸の痛みの理由はもう分かっている。
…その表情は、信頼するマスターのことを話す表情ではないということに、彼女はきっと気付いていない。
「…あ、あれ、最初に歌った曲」
彼女が指差したCDを抜き取ると、ケースには『メイコ、記念すべき1作目!』とメモがつけてあった。おそらくマスターの字なんだろう。右上がりの字体から完成したときの興奮が伝わってくるようで、俺はそっとプラスチックのケースを撫でる。
「…聞いてみたいです」
「えっ…これ?」
「はい。だめですか?」
「う~ん…だめじゃないんだけど…」
ごにょごにょと言いづらそうに言葉を濁す彼女。
俺には聞かせたくないってことなのかな、と不安になったが、ぽつりとこぼされた彼女の言葉は意外なものだった。
「…恥ずかしいの」
「え?」
「はじめてのレコーディングだったから歌い方も定まってないし、それに…」
そう言って、彼女が頬を赤らめる。
「…マスターの趣味で、アイドルっぽい感じの曲なの」
その様子が可愛らしくて、ついと微笑むと、笑ったわね、と恨めしそうに睨まれた。
「…可愛い曲は嫌いじゃないんだけど、キャラじゃないっていうか…。でもマスターって、そういうのばっかり歌わせたがるのよね」
…それはあなたのことが可愛くて仕方ないからだと思います。
言葉にしたくなくて、心の中だけでそう返事をした。
「聞いてみたいです」
先程よりきっぱりとした口調でそう告げる。
「だって、メイコさんが初めて歌った歌なんでしょう?」
おそらく俺が初めて歌う時、隣に彼女がいてくれる。しかし彼女が初めて歌った時、隣に俺はいなかった。せめてその歌声だけでも聴いておきたいと思うのは、俺の我侭だろうか。
彼女は困ったような表情で逡巡したあと、赤い頬のまま上目遣いで俺を見上げた。
「…笑わないでね?」
「…笑ったりなんか、絶対しません」
よく抱きしめたくなるのを堪えた。自分で自分を褒めてやりたい。
彼女が慣れた手つきでオーディオにCDをセットすると、なるほど80年代のアイドルのようなイントロが流れ始めた。ボーカロイドとしての機能なんだろう、流れてくるメロディーが音符となって脳内で楽譜となる。可愛らしい曲調、そしてそこに彼女の歌声が乗る。
――鳥肌が立つ。ああ、この歌声だ。ずっとずっと俺を包んでくれていた歌声。
確かに普段の彼女のイメージよりは高めの声だが、彼女が言うように恥ずかしいところなんて一切ない。
夢にまで見た彼女の歌声に俺は酔いしれた。
「も、もういい?やっぱり恥ずかし…」
停止ボタンに伸びた彼女の手を掴み、ぎゅっと握り締める。
戸惑うような彼女の視線を横顔に感じたが、意に介さない。
だめだよ。いくら君でも、俺から君の歌声を奪うなんて許さない。だってまだ全然聞き足りないんだ。
――結局俺は、曲が終わるまでずっと彼女の華奢な手を離さなかった。
「カイト、痛いよ」と彼女が言わなければ、永遠に繋いだままだったかしれない。
「メイコさん、お疲れさまです」
レコーディングを終え、スタジオから出てきた彼女に飲み物を渡すと、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「カイト、『さん』付けしなくていいってば。なんか恥ずかしいのよ、慣れなくて」
「いいじゃないか威張ってれば。先輩なんだから」
「もう、マスター!威張ってないです!」
マスターの軽口に、彼女の頬が染まる。楽しそうに笑いあう二人。ここへ来て、この光景を何度見たことだろう。
二人からは分からないように、俺はぐっと顔に力を入れる。不愉快そうな顔になるわけにはいかない。二人の会話を遮るように、俺は声を上げた。
「…じゃあ、なんて呼んだらいいですか?」
「え?…うーん…そうねぇ…」
頬に両手を当て、彼女は考え込む。適当に答えてくれて構わないのに、彼女は真剣に俺への答えを探してくれた。
「うーん…、じゃあ、『めーちゃん』!っていうのはどう?」
「め、『めーちゃん』?」
「うん、それなら『さん』付けより呼び捨てより呼びやすいでしょ?」
楽しそうに手を合わせる彼女に、マスターがぽん、と頭を撫でる。
「うん、可愛いね、『めーちゃん』」
「マ、マスターは呼んじゃだめです」
「えー、何で」
「何でもです!マスターは私の『弟』じゃないんですから!」
『弟』。
彼女の口から発せられた単語に自分でも驚くほど胸が痛んだ。
弟。そうか、俺、彼女から見れば弟なのか。
弟だから、大事にしてくれるのか。
「『めーちゃん』」
再び二人の会話を遮るように、俺は彼女をじっと見つめる。
こっちを見て。マスターじゃなくて、俺を見て。
「…って、呼びます。これからは」
そう宣言すると、ふわりと彼女が微笑んだ。俺の思惑になんかまったく気がついていない、純粋な笑顔。
うん、そう、そのまま俺を見て。
…君の後ろでマスターの表情が変わったことにも、気がつかなくていいよ。
「うん、いいわよ」
めーちゃん。めーちゃん。
『姉』と呼ばなくてもいいという免罪符をもらったのだ。
――絶対、『お姉ちゃん』とは呼ばない。俺は彼女からマスターに視線を移し、心にそう誓った。
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