「カイト、入るわよ」
短いノックの後、扉が開く音が続いた。
ノックもせず俺の部屋に勝手に入って来る輩は結構いる。が、控えめなノックのあと、優しく俺の名前を呼んで入って来るのは一人しかいない。
重い身体を引きずって、被った布団からのっそりと顔を上げると視界に映るのは愛しい人の姿。しかし今日に限っていつものように飛びつく元気はない。おかえりと言うだけに留めると、単刀直入な問いが返って来た。
「まだへこんでるの?」
「…ミクから聞いたの?」
「ミクっていうか、リンとレンね」
「…あんのおしゃべり双子…」
気持ちばかりの口止めはしたものの、意味をなさないだろうとは思っていた。つくづく予想を裏切らない奴らだ。彼女の両脇でステレオのように今日の出来事を説明している様が目に浮かぶ。『あのね、カイ兄がミク姉のこと怒らせたんだよ』。『あれはカイト兄が悪い、ミク姉が可哀想だ』…おそらくそんなところだろう。
「随分派手に喧嘩したみたいね」
「……」
「怒鳴られて泣かれて、おまけに『おにいちゃんなんかだいっきらい!』か。ミクに言わせるなんて大したもんだわ」
「……」
ミクは家族の中でも一番穏やかな性格をしているため誰かと喧嘩する事はほどんどない。いつもにこにこと笑っていて、家族の誰か…というか主に双子が喧嘩を仲裁するのがミクの役目だった。
(だめだよリンちゃん。レンくんも謝って。ちゃんと仲直りしよう?家族なんだから)
普段から家族のことが大好きだと明言しているミクに叱られると意地っ張りの双子もおとなしくなって、ごめんなさいと頭を下げる。それを微笑ましく見ているのがルカや俺や彼女の役目だったんだけれど。
今日に限っては、そのパターンには当てはまらない。何故なら喧嘩をしたのは双子ではなく、ーー他でもないミクと俺なのだ。
事の発端は、一本の電話だった。
その時俺はミクとお喋りをしながら家族の昼食を作っていて、リビングで鳴った電話に駆け寄り受話器を取ると、向こう側からは珍しい奴の声がした。
「はい、もしもし」
『もしもし、カイトにーちゃん?』
「ミクオ?」
弟分の声を聞くのも電話が来るのも随分と久しぶりだ。対面式のキッチンの向こうを見遣ると、まだ電話の相手に気付いていないミクが鼻歌を歌いながらホットケーキミックスを掻き混ぜている。すぐ代わってやるべきかとも思案したが、わざわざミクの携帯ではなく家の電話に掛けて来た辺りなにか理由があるのだろうか。
「どうした、なんか用か」
『用っつーか…』
なんてことない質問に言葉を濁すミクオに首を傾げつつ、なんだよ、と再び問いかける。
『…ミク、元気?』
「……?ああ、元気だけど」
『…そう。なら、いいんだ』
「あ、おい」
それ以上何も語ろうとせず、ミクオはそのままじゃあねと電話を切った。やけに一方的な通話だ。何となく腑に落ちない気持ちでキッチンに戻ると、ミクの大きな瞳がくるんと俺を見上げる。
「おにいちゃん、電話誰だったの?」
「……」
言うべきかどうか一瞬考えて、別に口止めされた訳でもないしと素直にミクオだと答えると、あからさまにミクの身体が強張った。ご機嫌にホットケーキを作っていた表情からは微笑みが消え、少しだけ目を見開いたあと、視線を逸らしたミクがそう、と小さく呟く。こちらも様子がおかしいことは一目見ただけで分かった。
「…なにかあった?」
「……」
「…喧嘩でもしたか?」
「……」
答えようとしないミクの顔を覗き込み、出来るだけ優しく声を掛ける。
ミクオの気まずそうな様子とミクの目にほんのり涙が溜まっていることから察するに、おそらくミクオのバカ野郎がミクに何かしたのだろう。
普段会えない分、絶対に喧嘩はしないようにしていると聞いていたのに。…何やってんだあいつは。
「…でもね、私も悪いの。クオくんがメールとか電話とかくれるのに、気付かない振りしてるから…」
「だって、あいつが悪いんだろう?だからミクも怒ってるんだろう?」
「…怒ってるっていうか…うー…」
ミクは優しい。それは兄である俺がよく知っている。だから、喧嘩をしている時までミクオのことを庇う。
二人の間に何があったのかは知らないし、ミクが話したがらない以上は俺も聞こうとは思わない。けれど、重要なのはミクがミクオに泣かされているという事実だ。それだけで兄としてミクオをぶん殴る権利を得たといっても過言ではない。
兄貴分を敬おうともしない得意げな笑顔が目に浮かぶ。今更二人のことを反対する気はないが、あいつがミクのことを傷つけるなら話は別だ。沸き上がった苛立ちがむくむくと大きくなって、奥歯を噛み締めた。
「…ったく、本当にロクでもない奴だな、あいつは」
ミクの手からそっとボウルを奪って、暖めていたフライパンにホットケーキを流し込む。良い匂いが辺りに広がるが、いつものようにはしゃぐミクの歓声は聞こえない。それもこれも、すべてミクオのせいだ。苛立ちが増す。
「ミクの亜種なのに優しさの欠片もないし、自分勝手だし、俺様だし」
「………」
「こないだなんか仕事中に抜け出したとか言ってたし、カイコも手焼いてるって」
「……」
「人気に胡座かいて仕事のこと舐めてるんだな、きっと」
「…ん」
「マスターにも平気で意見するみたいだし、殊勝さってもんを開発途中で落として来たんじゃないか、あいつ」
「…おにいちゃん」
「ミクも、見切り付けた方がいいんじゃないか?あいつにこれ以上構ってたって…」
「やめて、おにいちゃん」
口を挟んだミクの口調が思いのほか強いことに気が付いて、俺は溢れ出る言葉を留めた。
じゅう、とホットケーキが焼けこげる匂いがしたが裏返すタイミングを失う。ミクの目に、先ほど以上に涙が溜まっていたのだ。
「…ミク?」
「クオくんは、ちゃんとお仕事頑張ってる。俺様じゃないし自分勝手じゃないし、いつだって優しいもん」
「…でも、おまえのこと泣かせてるじゃないか、あいつ」
「これは私が勝手に怒ってるだけだもん。クオくんは悪くないよ」
「怒らせてるのはあいつなんだろう?こんな時まで庇わなくたっていいじゃないか」
「違うよ、クオくんはちゃんと謝ってくれた。でも、意地張ってる私が悪いの」
だからクオくんは悪くない。そう続けられた言葉に思わず「なんだよそれ」と言葉が漏れた。
なんだよ、それ。じゃあ全部ミクが悪いっていうのか。いつだって優しくて家族想いで、どんなに仕事がキツくたっていつも笑顔を浮かべているような俺の大切な妹が悪者なのか。そんなの、納得がいかない。出来る訳がない。
「ミク、もしかしていつもそうやってミクオに丸め込まれてるのか」
「…そんな言い方しないで。クオくんはそんな人じゃ…」
「だってそうだろう、お前は優しいんだから、あいつが付け入るのは簡単なはずだ」
「…やめてよおにいちゃん」
「どうせミクの優しさに甘えて我侭三昧なんだろ。最終的にはミクが許してくれると思ってるからあいつだって調子に乗るんだぞ」
「そんなんじゃないよ。クオくんのこと悪く言わないで」
「分かった、おまえ弱みでも握られてるんだな。だから逆らえないんだろう。お兄ちゃんに言ってごらん」
「おにいちゃん」
「本当は最初から反対だったんだ。ミクオとおまえじゃ釣り合う訳がない。今からでも遅くないぞ、さっさと別れ…」
「やめて!もう聞きたくない!!」
それは、今までミクの口から聞いたことがない程の悲痛な叫びだった。
手元からは最早手遅れのレベルで焼け焦げている匂いがする。けれど、裏返すことも火を止める事も出来ない。俺の身体は妹によってその場に縫い止められてしまった。エメラルドグリーンの瞳から一粒の涙が零れる。拭ってやらなくちゃと思うのに、身体が動かなかった。辛うじて呼吸は出来たので、ミク、とゆっくりと声を掛ける。けれど。
「おにいちゃんなんか、だいっきらい!!」
ーー続けられた言葉に、完全に俺の肢体はバラバラになった。
「…叱りに来たの?」
ゆっくりと身を起こしてベッドの上で胡座をかくと、ぽすんと軽い音と共に彼女が隣に腰掛けた。まだ仕事着のままだということは、帰宅してすぐに双子に捕まり、そのまま俺の部屋に来てくれたのだろう。ばつの悪い気持ちと共に申し訳なさがこみ上げる。
「ううん、そろそろ反省が終わった頃かなって」
「……」
この見通され感。ぐうの音も出ない。
頭を撫でられ、窺うように彼女を横目で見上げると、困ったように微笑む彼女の表情がある。普段はあまり意識しないようにしていることだけれど、こんな時ああ俺は弟なんだなと実感してしまう。
「言い過ぎたなって思ってるんでしょ」
「…うん」
「そうよね。あんたミクオのこと好きだもの」
「……」
反論はあったけれど、それが許される立場ではないのでぐっと飲み込む。
可愛い可愛い俺の妹が大好きな、同じプログラムで出来た弟分。ーー可愛くない訳が、ないじゃないか。
「メイトから、詳細聞いたわ」
「え?」
「ミクオね、この間ベッドシーンのある撮影したんですって」
それは意外な情報だった。
ミクもそうだが、ミクオにはあまりそういうクセのあるPVのイメージはない。アイドルとして人気を得ている二人にはマスター自身余りそいう仕事はさせないはずなのだが。
「勿論ミクオも仕事だからって割り切ってたらしいんだけど、…相手役の女の人に『私をミクちゃんだと思ってやってください』って言われたらしいの」
「……」
「…まっすぐなあの子のことだもの。怒るのも、無理ないと思わない?」
「……」
『あなたをミクだと思うなら、こんな仕事は出来ません』
一緒の撮影をしていたカイコの制止も振り切って、ミクオは仕事場をあとにしたという。そして、その一部始終を聞いたミクはミクオの事を叱った。
『どんなことがあったって、仕事を投げ出したらダメだよクオくん』
勿論お互いの気持ちは痛い程に分かる。心ない一言を聞いて怒ったミクオの気持ちをミクだって嬉しく思っていたはずだ。けれど、それ以上にあの子達はボーカロイドのトップとしての立場がある。ファンに支えられて、スタッフやマスターに支えられて、そして他ならぬ家族に支えられて仕事をしている自分たちに、それを放り投げることなど許されない。背中に背負った重圧は、誰よりもお互いが知っているはずだった。
その撮影が終わるまで連絡しない、と言ったのはミクの方だったそうだ。そして、連絡を取らないまま1週間目。クランクアップの予定日が今日だという。
「…理由を知らなかったのにしろ、今回はあんたが悪いわね」
「……」
「別れろなんて、家族が言っちゃいけなかったわ」
「……」
静かに諭すような口調が居たたまれない。
分かっている。本当は、分かっていた。
言い過ぎだということも、言ってはいけない事を言っているということも。でもミクは我慢してしまう子だから、俺が代わりに怒ってやらなくちゃと自分勝手な兄心をが湧いたことも事実で。…そんなこと、ミクは望んでなどいやしなかったのに。
「あんまり責めないであげて。あの子、誰かと喧嘩するの苦手なんだから」
「…うん、分かってる」
『だいきらい』。
その言葉はきっと言った本人が一番辛かったはずだ。誰よりも味方で居てあげなくてはならなかったのに、俺はミクの一番大切な物を貶めてしまった。駄々をこねるのも、我侭を言うのも下手な、俺たちのはじめての妹。泣かせてしまった事への罪悪感が更に膨らんで、なんていうか消え去りたい気分になる。
「…俺、兄貴失格かなあ」
「大丈夫、ミクだって分かってるわきっと」
「…そう、だといいけど…」
「もう、しっかりしなさいよ、おにいちゃん」
ぱしん、と背中を叩かれた。痛くはない。けれど、そこから伝わる何かが体中に行き渡る。
弱気な気持ちを吹き飛ばしてくれるようなパワー。そこに居てくれるだけで、世界が少しだけ明るく見えるような唯一のひと。俺にとっては彼女がそうであるように、ミクにとってはミクオがそれに当たる。
メールや電話が来ると嬉しそうで、会える日は朝からそわそわして、手を繋いでいる時は見ているこちらが恥ずかしくなる程幸せそうで。そんな簡単な事を、今更のように思い出した。
「ほらほら、今日は腕に寄りをかけて美味しいご飯作るから。それまでに仲直りすること」
「…うん」
弾みをつけて立ち上がった彼女に手を引かれるように、俺もつられて立ち上がる。柔らかな手に指の間を握られて、それだけで勇気が沸いた。
いつだって俺を導いてくれる手。ずっとずっと、憧れて敬愛して、愛しんで、やまない温もり。
「でも、ミクはやっぱり優しいわね」
ノブに手を掛けたところで、ふと彼女がそんな事を呟いた。え、と耳を寄せると、一瞬言葉に詰まる様子を見せて、俯く。
だって、の後に小さく続けられた言葉。
「私だったら、カイトの事そんな風に言われたら、多分もっと怒っちゃう」
ーー扉の方を向いた表情は分からないが、形の良い耳がこの上なく赤く染まって行くのが分かって、俺と彼女の距離は一気にゼロになった。
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