「ごめんなさい。他に、好きな人が出来たの」
その言葉を口にした瞬間、二人を包む空気が変わった。
遠回しサヨナラは遅効性の毒を持ってじわじわと体を蝕み、体の末端から少しずつ温度を奪っていく。
重苦しい沈黙の中、こんな状況でこれ以上どんな言葉を紡ぐのが一般的なのか私には分からないし、彼もまた同じだろう。それほどまでに私たちはずっと一緒で、離れたことなどなかったのだから。
「……」
「……」
軽く三十秒を数えて、ふと頭上を見上げる。そして、目に飛び込んできたものにぎょっとした。
――音もなく、静かにカイトが泣いていたのだ。まるで水道の蛇口が壊れてしまったかのようにぼたぼたと大粒の涙が彼の瞳からこぼれ、膝を突き合わせて座っている掌の上に落ちていく。紙のような顔色にはどんな感情も浮かんでおらず、それが却って恐ろしい。
「ちょ、ちょっと、なにも泣かなくたって…」
「…だって、めーちゃん、が」
「……」
「ほ、かの男のこと、すき、って」
おそらく、人が一遍に流せる涙の量の限界値をキープしながらカイトは言う。
言った。私は確かにそう言った。他に好きな人が出来たのと思い詰めた顔で言ってみせた。けれど。
思わず頭を抱えた。最初から嫌な予感はしていた。どうせこうなるだろうと思った。それでも私は、ああ言わざるを得なかったのだ。
――何故なら。
「もう!お芝居だって分かってるでしょ!」
べしんと彼の膝を叩いて叱り付ける。
だってぇ、から続く情けない言葉と表情に、盛大に力が抜けた。
*
ことの始まりは一本の電話だった。
よく晴れたあるオフの日。私は上の妹二人と一緒に買い物に行こうと約束をしていた。
朝ご飯を食べて、着替えを済まし、さぁ出発。リビングの電話が鳴ったのはそんな時だった。
「はい、もしもし?」
『もしもし、メイコか?』
玄関から慌てて引き返し、持ち上げた受話器の向こう側からは聞き慣れた低音。
彼とも長い付き合いだ。もしもしの言葉一つでご機嫌が分かるくらいには感情を読み取ることが出来る。確実に、ご機嫌の針は負の方向に振れていた。
「マスター、どうしました?」
『…おまえ、今暇か?』
「え?今、ですか?」
『…悪い、忙しいなら別にいいんだ』
わざわざマスターが電話をしてくるということは、仕事で何かあったことに他ならない。
今日家族で仕事に出かけているの三人。リンとレンはアルバムのレコーディング、カイトは新曲のミュージックビデオの撮影と言っていたはずで、その内の誰もなにか大きな問題が起こりそうな様子は見受けられなかったのだけど。
「…なにかあったんですか?」
『…カイトの奴が、ちょっとな』
「カイト?カイトが、どうかしたんですか?」
『…説明が難しいんだが、ちょっとトラブってる』
「トラブルって…」
事故、怪我、オーバーヒート。
不吉な単語が次々に脳内に浮かんではまるでシャボン玉のように弾けて消えていく。
今朝のカイトの姿を思い出してみる。鞄を抱えて靴を履いて立ち上がったくせにいってらっしゃいのキスを待って動こうとせず、早く行きなさいよと叱りつけると子犬みたいな顔で見詰めてきて、仕方なく頬に口付けを贈るとそれでも不満そうにおかえりのキスは唇にしてねと悪戯っぽく笑った。いつも通りだったはずだ。少なくとも、私にはそう見えたのに。
『オフなのに悪いんだが、…ちょっと来てくれないか』
事態の重さは把握出来ないが、マスターの様子から察するになにか良くない事態が起こっていることは分かる。しかも私にまでお呼びが掛かるなんて相当だ。
すぐに行きますと電話を切り、玄関先で妹たちに事情を説明して私はその足でカイトの仕事場へと向かった。
「失礼します、メイコです」
撮影スタジオで顔なじみのスタッフを見つけ、マスターがいるという控え室に案内してもらうと想像よりもずっと妙な事態が私を待ちかまえていた。
そこにいたのは苦い顔で重い煙草をふかしているマスターと、パイプ椅子の上に体育座りでむすっと頬を膨らませているカイトの姿。それぞれ視線を合わさないようにそっぽを向いており、やってきた私の方を向こうともしなかった。
…喧嘩しているように見える。が、やはりなにが起きているのかはさっぱり分からない。あの、と恐る恐る声を掛けると、やがて黙り込んでいたカイトが口を開いた。
「…せっかくオフだったのに、本当にめーちゃん呼ぶことないじゃないですか、マスター」
「おまえが悪いんだろうが、聞き分けねぇことばっかり言いやがって」
「マスターが言いがかりつけるからでしょ!」
「んだとコラ」
「ちょ、ちょっと、やめてください」
一触即発の雰囲気に戸惑いつつ、二人の睨み合いの間に割って入る。
元々この二人は心底仲良しというような関係ではないけれど、これでは完全に喧嘩中じゃないか。ここに案内してくれたスタッフの「撮影がストップしちゃってて」という困り顔を思い出して心の底から納得する。肝心要のマスターとボーカロイドがこれでは、撮影なんて続けられる訳がない。
「…あの、一体何が?」
私の質問に二人は同時にお互いを指差し、堰を切ったように話し始める。
「マスターが」
「カイトが」
「やたらと難癖つけるから全然撮影が進まないんだよ」
「PVの趣旨を理解してなくてちっとも作業が進まねぇ」
「まったくいい迷惑だよ。スタッフさんも困ってるのにさ」
「このままじゃロクな作品にならない。んなもん許せるか」
「…えーと、すみません、一人ずつ喋ってもらっていいですか」
――隙あらば喧嘩腰になる二人を宥めすかしながら聞き出した話をまとめるとこうだ。
カイトの新曲は、別れた恋人への想いを歌うラブソングだった。実は私もデモテープを聞かせてもらっていて、綺麗なメロディに切ない歌詞が載りカイトの高音が映える素敵な歌だった。
バラードは久々だったもののレコーディングは特に問題なく終了、全ての作業が滞りなく進行していた…はずだったけれど、落とし穴はPV撮影に潜んでいたという。
マスターの言い分は、『カイトがちっとも失恋した男に見えない』。見た目が健康そのもので、ちっとも説得力がないというのだ。
今回のPVは曲のストーリーをそのままなぞるような演出になっていて、別れた恋人のことを想ってカイトが涙をこぼすシーンもあるらしい。演技で涙は流せても、アップになればきちんと三食食事を取ってぐっすり眠った血色の良さが分かる。失恋して寝ても覚めても恋人を想っている曲の主人公にそぐわないというのがマスターの意見だった。
けれど、カイトはそれに真っ向から反論した。
他のスタッフからは特になんの問題もないと太鼓判を押されているし、演技自体に問題がないことはな他ならぬマスター自身も認めている。
確かにPVの設定に拠っては役柄に合わせ鍛えたり減量したりするけれど、今回に関しては等身大の男性の歌だ。無茶な役作りは必要ないと思うし、血色の良さはメイクまたは編集でどうにでもなる。撮影はある程度進んでいるのに今更後日オールリテイクは得策ではない。
二人の意見は初めから平行線を辿り、徐々に意見交換が言い争いに発展して、今に至るという。
「大体今日やめて全部撮り直しとか何考えてるんですか?進行全部狂うんですよ」
「じゃあおまえ、こんな中途半端な出来のもん作るのか?」
「だから、何度も言ってるじゃないですか!俺だってこの歌はすごく好きなんです!だから本気で…!」
「本気の割に肌つやが良すぎんだよ!おまえ昨日何食って何時に寝てんだかもう一遍言ってみろ!」
「昨日は家族で焼き肉パーティーだったんですよ!その後洗い物して、めーちゃんと一緒に十二時前には寝てました!」
「それのどこが失恋した男の生活なんだよ!」
バン、とマスターが机を叩く。一瞬聞き捨てならないことまで暴露されたような気がしたけれどその音の衝撃で叱るのを忘れた。
思わず身体を竦ませるとそれに気付いたマスターが気まずそうに視線を逸らし、悪い、と呟く。普段淡々としている分マスターが声を荒げているのは珍しい。よっぽどこの作品に思い入れがあるということなのだろう。
「…自信作なんだ」
ぽつんと漏らされたその言葉にカイトと私が顔を上げる。
「久しぶりにカイトのソロバラードで、昔馴染みも楽しみにしてる人が多い。だから、滅多なもんは作りたくない」
「…マスター」
「俺の我侭だってことは重々承知してる。今からじゃ進行も狂いに狂ってスタッフにも迷惑が掛かるって分かってる。…でも、これは俺の作品だ」
「……」
「俺が妥協して、いいもんが作れる訳がない。…そうだろう」
「……」
カイトの横顔を盗み見る。意図せず触れてしまったマスターのプライドと思いを知ってしまって振り上げた拳を下ろす場所を失った、そんな表情だった。
元々ボーカロイドというものはマスターの意志によって動かされるものだ。私やカイトは付き合いが長い分どうしても気軽になってしまうけれど、ボーカロイドがマスターに意見したり反抗したりすることは本当は許されることではない。インストール、アンインストールを含めすべての決定権はマスターにあるのだから。
良い作品が作りたい。それは、カイトも同じことだろう。だから、言葉を失ってしまった彼の代わりに私が答えた。
「…私は、何をすればいいですか?」
「……」
「…めーちゃん?」
「だって、私が呼ばれたのはこの状況を打開するためなんですよね?」
「…ああ、そうだ」
「いや、ちょっと待ってめーちゃん、あの」
「私が出来る事ならなんでもします。カイトだってマスターに反抗するのは本意じゃないと思いますし。ねぇカイト」
「いや、そりゃ、そうなんだけど、でも」
途端にあたふたするカイトを無視して、マスターへ向き直る。
新型のボーカロイドが次々と発売される中で、初期エンジンの私たちを変わらずに第一線で使用してくれる、私たちのマスター。形は違えど間違いなく私たちは彼のことを尊敬している。そうでしょ、と視線を合わせると、うう、と呻くような声が彼の口から漏れた。
「だから、何でも言ってください。私がお役に立てることならなんでも」
「…ああ、ありがとう」
ようやくマスターの顔が少しだけ緩んで、私も安堵の息を吐いた、瞬間。
続いた台詞に耳を疑わざるを得なかった。
「――メイコ、今ここで、カイトをフってくれ」
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ご意見・ご感想
くらびー
ご意見・ご感想
どうも、キョン子さんのストーカーです(゜∀゜)
すみません殴って下さい
ブクマ頂きます! 今回も相変わらずとてもステキで、泣かせていただきました…
余すところ無くカイメイ美味しいです。ありがとうございました!!
2012/05/26 01:27:12
キョン子
>鎖骨☆様
ストーカーなんて…!むしろ光栄でいつもちびってしまいそうな勢いですこんにちは!
少しでも楽しんで読んで頂けたなら幸いです、最近脆い二人を書くのが好きらしく…本当は逆でも美味しいかなとか思いましたが今回は兄さんにめそめそしてもらいました…///
ブクマ&メッセ―ジありがとうございました!いつも励みになっております!!
2012/06/03 16:59:33