正直に言えば、俺はもう1週間も前から今日という日を楽しみにしていた。
その理由は、リビングに置かれた家族のスケジュールボード。
『ミク・レコーディング。リン&レン・PV撮影。ルカ・ライブ打ち合わせ』。
そして、『メイコ・オフ。カイト・オフ』。
弟妹たちを見送ったあと、俺は密かに拳を握る。
並ぶ赤と青の文字。そして、お揃いの『オフ』のマグネット。
要するに、今日は二人きり。朝から晩まで俺の独壇場というわけだ。
やりたい事はたくさんあった。二人きりでデート、二人きりで買い物、二人きりで映画鑑賞、二人きりで…おっと、この先はやめておこう。まぁとどのつまり、彼女の二人きりならなんだっていい。
彼女の周りにはいつも人が溢れていた。『皆のお姉ちゃん』として弟妹の世話をして、『初代ボーカロイド』として後輩の面倒を見て、『はじめての歌姫』としてマスターの信頼に応えている。そんな彼女が誇らしくも、ちょっと寂しかったりするのも事実だった。
俺が彼女の恋人であることは疑うべくも無いけれど、一番近くにいるからこそ遠慮をしていることだって多くある。弟妹の相談事があれば彼女の隣を譲り、仕事で疲れてるだろうなと思えばお喋りする時間を削って早めの睡眠を促したりして、自分で言うのもなんだけど、俺だって結構頑張っていろいろと耐えているのだ。
手を伸ばせば彼女を抱きしめられる位置にいるのに、おやすみと笑顔で見送る生活が1ヶ月。正直健全な男なら半狂乱になってもおかしくないだろう。
だからこそ、今日という日を待ち望んでいたのだ。
俺と彼女の二人きり。
――さぁ、一体どんな甘い囁きから始めましょうか?
「カイトー」
「うわっ、は、はい!」
ひょこ、とキッチンから顔を覗かせた彼女に驚いて飛び上がる。
「なぁに、それ。新手のギャグ?」
「あ、いや、そういうんじゃないんだけど…」
「変なカイト」
くすくす、と柔らかな笑い声が耳をくすぐる。可愛い。片側だけ出来るえくぼを無性につつきたい。決めていたはずの台詞が丸ごと吹き飛んだ。
「朝ご飯、ホットケーキでいい?ちゃんと用意する?」
「あ、ああ、ホットケーキでいい、全然、ていうか、むしろ、ホットケーキが」
「…そんなに食べたかったの?」
「う、うん。すっごく」
「なら良かった。ごめんね、でもミク達みんないないし、ちょっとだけ手抜きしてもカイトなら許してくれるかなって」
――そんな可愛い笑顔見せられたら許すも許さないもありませんコンチクショウ。
既に緩みかけている理性のネジを懸命に巻き直す。
(落ち着け俺。こんな簡単にがっついて彼女に呆れられたらどうする。今日は久しぶりに二人きり。勝負はこれからなんだぞ)
ふすー、と大きく鼻から息を吐いて、落ち着いた気になっておく。
「あ、カイト」
「えっ」
「えーと、ね。久しぶりに、カイトの淹れてくれたコーヒーが飲みたいな、なんて」
「お安い御用ですモルスア!!」
その後もいちいち可愛らしい仕草の彼女に俺はノックアウト寸前。
せっかく作ってもらったホットケーキは味わう前に完食してしまうというもったいない行為をして自分で自分をぶん殴りたくなってしまった。
*
「今日、何しよっか」
「そ、そうだね何しよっか!」
二人で並んでお皿を洗いながら、うわずった返事を返す。
二人っきりの休日。何をするのが一番充実するか。真剣に考え続けているが、未だに応えは出ない。
「め、めーちゃんは、なにしたい?」
「私?んー…そうだなぁ…」
水道水で泡を落としながら、彼女は少し考え込む様子を見せる。
彼女自身、オフは久々なはずだ。もしかすると一人でやりたいことも溜まっているかもしれない。「ごめんカイト、下着買いに行きたいから買い物行ってくるね一人で★」と言われれば俺は涙を飲んでその背中を見送る事しか出来ない訳で。もしかすると俺がいるから気を遣って出来ないこととかあるんじゃないだろうか。そうすると、むしろ俺から一人になれるように提案してあげた方が…。
ぐるぐると答えのでない事を悩みつつ、手渡されるお皿をふきんで拭いて行く。手渡される瞬間に一瞬だけ指が触れ合うのが嬉しいなんて童貞めいたことを考える度にひたすら素数を数えていた。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴ったのは、まさにそんな瞬間だった。
チャイム。イコール、来訪者。イコール、お邪魔虫。瞬時にそんな図式が出来上がり、目の前が暗くなる。
「あら、誰かしら」
エプロンで手を拭いて、ぱたぱたと彼女が玄関へと走る。
その細い腕を取ったのは、ほぼ脊髄反射だった。驚いたような顔で彼女が振り返る。
「カイト?どうしたの?」
「あ、いや、あの…。お、俺が出るよ」
「そう?じゃあ、お願い」
洗い物に戻る背中を確認し、顔の筋肉だけで吊った笑顔を貼付けながら俺は玄関へと向かう。
どこのどいつだこの野郎、といきり立った気持ちで魚眼レンズを覗くと見慣れた紫紺の髪が見えた。彼女に聞こえない程度の舌打ちをして、そっと玄関を開いた。
「おお、カイト殿、おは…」
薄く開いた隙間から身体を滑り込ませ、彼の口を掌で塞ぐ。俺よりも10cm近く長身なのがいつも以上に腹立たしい。
「がっくん、しぃー!」
「はひふるでほはる?」
なにするでござる、ではない。こっちだって必死なんでござる。
いいからでかい声を出すなと目だけで指示をして、門の外へと連れ出した。
「一体どうしたのだ、カイト殿」
「ちょっとね。ところでがっくんなんか用?」
「リリィが昨日里芋の煮っころがしを作ってな。これがまた絶品だったので、是非お隣さんにもと…」
「おーそりゃありがとう」
奪い取るようタッパーを受け取り、がっくんの背中を隣家へ向けて押し出した。
「何で押すでござるか」
「男には押さなきゃいけない時があるんだよ」
「メイコ殿に美味しい玉露があるとこの間言われて、茶葉を貰いに行く約束をしていたのだ。出来れば中に…」
「だめ!今日だけは!だめです!」
「どうして」
「どうしても!」
我ながら驚く程の悲痛な叫びだ。事情を知らないがっくんは尚更で、戸惑った様子で首を傾げる。
「…なにか、深い事情が?」
深いと言えば深い。彼女と二人きりの時間を邪魔されたくないという崇高な事情だ。けれど、俺だって一応大人だ。そんなことをおいそれと素直に暴露してしまえる程子供ではない。
「…ああ、深い事情だ。頼む、察してくれ」
真剣にがっくんを見つめると、紫紺の瞳が揺れて、あいわかった、と吐息まじりの返事が返って来た。
察してくれ、と言って本当に察してくれるとは。神かそれともエスパーか。
「…良い薬がある。良ければ、あとで我が家まで取りに来るといい」
「…?わかった」
「お大事にするでござるよ」
心無しか同情するような目でがっくんは隣家へと戻って行き、俺は手の中に残されたタッパーを握りしめる。
ミッションコンプリート。これで、再び彼女との穏やかな時間が待っているはずだ。
そう思って部屋の中に入ると、彼女が何やら電話で誰かと話していた。
電話の向こうの声は恐らく反対側の隣家。キヨテルさんの声だ。
「え、そんな、悪いですよ。お借りしてたのは私ですし…」
お借りしてた?何の話だ?リビングの扉に張り付いて様子を窺う。
「え、いや、そんな…。いいんですか?すみません、なんだかお手数かけて…」
恐縮した様子の彼女は何度も電話越しに頭を下げている。
察するに、彼女がキヨテルさんから何かを借りていて、それをキヨテルさんが取りに来るという話になっているのだろう。借りていたのは自分だから、という彼女に対しいえいえどうせ出かける用事もありますし、という会話が手に取るように分かる。
また来客か。再び舌打ちが出た。
「あ、もしキヨテルさん出かけられるなら、ユキちゃんうちで預かりましょうか?」
な に 言 っ て ん の こ の 子 。
辛抱たまらなくなって、リビングのドアを開いて受話器を奪い取った。
「ちょ、ちょっとカイト!なにす…!」
「あ、もしもし、キヨテルさんですか?どうもこんにちは、あなたのお耳の恋人、カイトです」
『え、え?か、カイトさん?』
突然代わった声に戸惑っている様子のキヨテルさん。その隙を逃さず、追撃する。
「その節はアレ、ありがとうございました。もーすっごく助かりました。今からめーちゃんのものと一緒に、 俺 が がお返しに行きますね」
『え?あ、アレ?あの、アレって…』
「いやーほんとに、キヨテルさん様々でしたよー。とにかく、今から 俺 が そちらに向かいますから。それじゃ、失礼しまーす」
『え、あの、ちょっと、待っ』
がちゃん。
聞き返す間を与えず電話を切る。
ふー、と大きく息を吐くと、ばしんと背中を叩かれた。振り返ると、少し膨れた様子の彼女の姿。
「…まだ私が話し中だったのに」
「あ、ご、ごめんね、俺もキヨテルさんに借りてるものがあってさ、慌てたらつい」
「もう、親しい人だったから良かったものの、仕事関係だったらどうするのよ、ばか」
「ごめんね、気をつける」
親しい人、という単語に一瞬眉間の皺が寄りかかったが、瞬時に戻した。そんな些細なことで嫉妬して、彼女の不興を買うのは得策ではない。にこ、といつも通りの笑顔を浮かべると、まだ少し不満げな様子ではあったが彼女も機嫌を直してくれたようだ。
彼女がキヨテルさんから借りていたのはCDだったようだ。
俺たちのマスターは邦楽洋楽問わずオールジャンルの音楽の音源を収集するのが趣味で、俺たちボーカロイドはこの世界の中で自由にその音源を聞いたり歌ったりすることを許されている。一度聞くとマスターは気が済むらしくいつも大量の音源が倉庫に眠っていて、又貸しにも寛容だ。今回も、キヨテルさんが聞いていたCDを彼女が借りていたらしい。
ちなみに、俺がキヨテルさんから借りていたものは、ない。早い話が嘘だ。けれどバレなければ嘘にはならない。
そそくさと家を出て、今度は反対方向の家へと足を向ける。我が家よりも少し小さいサイズの一軒家の玄関には、ユキちゃんのものと思われるミニサイズの自転車が置いてあって、思わずほっこりした気持ちになった。
「…はい」
チャイムを鳴らして恐る恐る顔を出したキヨテルさんに、にっこりと笑顔を向ける。
「こんにちはー。突然すみません」
「あ、いえ…。お上がりになりますか?」
「いえいえ、ここで結構です。キヨテルさん、これからお出かけになるんですよね?」
「あ、はい。急に仕事が入って」
「そうでしたか。あ、そうそうこれ、 う ち の めーちゃんから。ありがとうございましたって」
「わざわざすみません。…あの、僕カイトさんにもなにか貸してましたっけ?」
「あ、すみませんあれ勘違いでした。あはは」
「そ、そうですか、あはは…」
恐らく、キヨテルさんは今俺からものすごい威圧感を感じているはずだ。それもそのはず、俺自身が威圧感を出していると実感している。
キヨテルさんに罪はない。けれど、ひとつ言わせてもらうなら彼女が彼のことを『親しい人』と括ったことが面白くない。俺の知らない所でCDの貸し借りしてるのも。あ、ふたつだった。
「おうち、今ユキちゃんだけですか?」
「あ、いえミキといろはも居ます」
「そうですか、じゃあキヨテルさんが留守にしても安心ですね?」
「え、ええ、まぁ」
「いやぁ、俺んとこも家族で買い物に出かけようかなんて話になってまして。これから留守にしちゃうんですよ」
「あ、そうでしたか」
「お出かけ前にすみませんでした、じゃあ、俺はこれで」
「は、はい…」
最後まで、イニシアチブを取らせないまま会話が終了。
すみません、キヨテルさん。あなたは良い友人でしたが、あなたの好青年ぶりがいけないのです。
若干の罪悪感は感じていたが、これでもう邪魔は入らないだろうという喜びの方が勝っていた。
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