51.レンの思い
もうすぐこの国は終わるだろう。
この朝、レンは目覚めてふと、確信した。
この日の朝も、王宮広場は日の出から大騒ぎだった。だんだんと、武具を持った人が増えてくる。王宮に武器を向けることを恐れなくなってきているのだ。
やや黄色みのかかった木の葉が、レンの目の前を風に吹かれて舞い落ちて行った。
ついにこの日、王宮広場のみならず、王宮の周囲すべてが、すべて武具を持った群衆で埋まった。
「レン。おはよう」
朝食を持って部屋を訪れたレンを迎えたリンは、今日も完璧であった。
やや肌寒くなってきた気温に合わせて、秋用の生地を使ったドレスを、今日も一分の隙もなく着こなしている。やや伸びた黄色の髪をきれいになでつけて、金属のピンで完璧に整えていた。
「あら、今日もブリオッシュなのね」
リンが微笑む。
「ええ。今日もブリオッシュですよ」
レンも微笑む。
野菜のスープとブリオッシュ。黄の国の定番の朝食。
何時が最後の食事になるか、わからないから。最後まで、黄の国の物を食べさせてあげたい。
そんなレンの思いを知ってか知らずか、この王宮の料理人はブリオッシュを作り続け、リンもレンも、それを食べ続けた。
「あら、今日は少し様子が違うわね?」
リンがわずかに顔をしかめた。
「……いつもの料理人では、無いわね」
「申し訳ありません、女王様!」
レンが勢いよく頭を下げた。
「……今回は、僕の作であります!」
リンが、思わず手を止め、目を丸くした。
「まあ……」
レンがぐっと奥歯を噛みしめる。せっかくの小麦で素人がまずいものを作ったと、叱責を受ける覚悟をした。下げた頭を戻さずに、じっとリンの言葉を待つ。
「レンが作ったの! すごいわ!」
予想に反してはしゃいだ声が降ってきて、レンは思わず顔を上げてしまう。そこには満面の笑みのリンが居た。
「レンは器用ね! 何でも出来るのね! すっかり立派な召使だわ!」
「……恐れ入ります」
何やらレンにとっては複雑だが、リンの笑顔は無条件でレンの喜びであった。
「では、わたくしはこれをしっかりと味わわなくてはね。すべての話は、あとにしましょう」
そう言って、リンは幸せそうにブリオッシュをほおばった。これまでのような格式ばった食べ方ではなく、昔、彼女がそうしたように、本当に楽しそうにブリオッシュをちぎり、口に運んだ。
半分に割いて渡してきたリンの手からブリオッシュを受け取り、レンも食べる。
この朝、王宮の中がいつも以上に静かであることに気づかぬふりをして、ふたりは子供のころに戻ったかのようにはしゃぎながら、その朝の食事を摂り終えた。
「ありがとう、レン」
食事を終え、手をふき、リンが立ち上がった。
「いえ、リン女王様」
「食事のことだけではないわ。今までありがとう、レン」
一瞬、強烈にレンの喉が詰まった。メイコでは無いが、馬鹿野郎と怒鳴りたくなった。
リンを泣き叫んで罵りたくなった。
なぜ、この瞬間にありがとうなどと言うのだ?
リンはいつも勝手に覚悟を決めて勝手に考えを進める。いつも黄の国のことばかりで、レンの気持ちなどお構いなしだ。
だいたい、リンは自分と俺が本当に同じ考えだと思っているのだろうか?
血を分けた双子だからといって、俺がリンと同じ考えであると、本当に信じて疑わないのだろうか?
いや、そうではない、とレンは思いなおした。
リンは、すべての始まりのときに、自分に尋ねたのだ。
「もしもレンが嫌なら、あたしをここで殺してちょうだい」
父である王と母である王妃を殺し、黄の国の女王となると決めた日のことだった。
まだ夜の明けぬ、旅の宿でのことであった。
では、あのときリンを殺せなかった自分は、今すべてを背負って死んでいこうとしている彼女に対して、何も言うことはできないのだろうか。ひとりの人間として、レンとして、自分の気持ちを言う権利は、無いのだろうか。
「レン……レン!」
「はい、リン様」
レンはリンの呼び掛けに、我に返った。
「もう、王宮にはあたしたちしか居ないようね」
レンはうなずいた。
「ハイ。護衛の兵士は残っていたはずなのですが……」
「着替えを運ぶ召使も来なかったのよ? 護衛の兵士も、とっくに外の群衆に取り込まれてしまっているでしょうね」
リンが、部屋の窓に目を向け、中庭に降り注ぐ朝の光を見つめた。王宮の塀の外を見透かすように空を見上げ、そして、笑った。
「それでいいわ。王宮から給料が出るから、皆残っていたのでしょう。いくら食べ物と仕事があるからと言って、これ以上ここに残ると命が危ないわ。
召使や家来が賢くて、わたくしは嬉しくてよ?」
レンは、表情が歪むのを抑え切れなかった。この娘は、本当に何を言っているのだ。
召使として、他の召使と大部屋で寝起きしたレンには分かる。
みな、即位してから豹変した女王に戸惑っていたが、それでもリンの側に残ったのだ。
それが、リン個人に向けられていた愛情だと、なぜこの娘は気づかない?
外の騒ぎは大きくなっていく。レンの胸のざわめきも大きくなっていく。
「レン」
「リン!」
レンは、たまらずリンを抱きしめた。
もう、自分に向かって微笑むリンなど、顔も見たくなかった。
女王として一人で毅然と立つリンなど、見たくもなかった。
……こうして抱きしめてしまえば、すべて、見なくて済む。
「レン……」
「リン。君の笑顔は、僕の幸せだった」
喉から絞り出すようにしてつぶやいたレン。その言葉が、リンのすぐ顔の横で、耳に熱く浸み込んだ。
「レン。……あたしの幸せは、国の幸せよ」
その瞬間、レンの腕に力がこもった。強い腕と胸が、リンの体を折らんばかりにかき抱く。
その強さにレンの怒りを感じ、わずかに呻いたリンだが、そのまま、言葉をつづけた。
「……レン。いい、何度でも言うわ。
あたしの幸せは、あたしが幸せになることじゃないの」
リンの耳の横で、レンの喉がひゅうっと鳴った。
「レン。あたしの幸せは、黄の民が幸せになること。王として道を示し導くことよ。
だから……見届けてね、レン。
もうすぐ、王政は終わる。諸侯たちも群衆に飲み込まれ、一度、ただの民へと還る。
そして、本当に、黄の民皆が、幸せを願う時代が来るの。
あたしやレンや、父上や母上や、誰かがおやつを食べさせられる時代は終わり……緑の国や青の国のように、皆が自分のおやつを食べて、ちゃんと黄の幸せを考える日が来るの」
リンの言葉に、レンはただ震えていた。
「そんな……僕は……ならリンも僕も、黄の国に生きている民のひとりなんじゃないのか」
抱きしめているおかげで、レンの顔はリンの顔のすぐ横にある。レンの心の叫びが、リンの耳朶を間近で打つ。
「僕……俺だって黄の民だ。俺の幸せは、リンがばあさんになるまで笑っていることだ!女王のあんたが、民である俺の願いを踏みにじるのか!」
次の瞬間、リンがレンを力強く突き離した。拒絶されたと真白になったレンの頬に、リンの両手が伸ばされた。
その頬が、リンの手のひらにつつまれた。
やや乾いた両手の感触とともに、レンの唇に、薔薇の香りが移された。
「リン……」
唇にキス、だ。
レンが気づいた時には、リンはすでに離れていた。青い海の色の目が、じっとレンを見ていた。
「ありがとう。レン。……そして、ごめんね。
きょうだいのあなたが陰で支えてくれたおかげで、わたくしは『幸せ』になれました。
そして……レンは、あたしが不幸にするただひとりの黄の民なのね」
レンの頭がぼうっと薔薇の香りにしびれていく。遠くのざわめきが、いよいよ耳に近く迫ってくる。何かを突き破り、崩す音も聞こえてくる。
「行って。レン。今なら笑って見送ってあげる。
あたしの笑顔が、あなたの幸せ。……そうよね?」
レンは唇を引きつらせ、泣き笑いの表情で頷いた。
「うん。そうだね。だから」
レンはバサリと服を脱ぎ捨てた。
「えっ」
突然のレンの行動に、リンの思考と行動すべてが止まる。目の前にあるのは、育ち始めたばかりの男の体だった。
顔はそっくりだが明らかな少年の体に、リンの頬が赤く染まる。
「何をするの、レン」
「逃げるのは、君だ。これを着てお逃げなさい」
つづく!
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