31.落ち逝く星
「ホルスト様!」
玉座の間の外の番兵が、血まみれになって出てきたホルストと医者のガクに色を失った。
「すぐに医者と担架を!」
「私が医者だ。担架と、そして部屋をひとつ空けてくれ! そして私の道具を返してくれ!」
すぐに走り出そうとした番兵を、ホルストの声が止めた。
「いい。……もう、良い」
「良くはないだろう!」
この国の重鎮であるホルストに向って声を上げたガクに、兵士ふたりも同意する。
「そうですよ! ホルスト様!」
「医者がここにいるなら話は早い、道具は適当に調達しますから、お願いします、医師殿!」
ところがホルストは、痛みに歯を食いしばり、ゆっくりと首を振った。
「……私を必要とせぬ国で、生きていようとは思わぬ」
「主殿! それはすべての生きようとする生命に対して失礼であろう!」
ガクが声を荒げた。それをホルストは視線だけを上げてみやった。口の端がわずかに動いた。ホルストは笑っていた。
「なあ。ガク。お前の医術の技は最高だと聞いている。……そのお前から見て、私は、助かるのか」
ガクはとっさに答えられなかった。その動揺を、政治という感情と理性の荒波を越えてきたホルストは見逃さなかった。
「助からんのだろう? ……こうでも言わぬと、悔しくてかなわぬ」
ガクの表情が大きくゆがんだ。そして、ガクの意思が言葉となって搾り出された。
「……患者のために、最善を尽くす」
「正直な男だ」
ホルストが笑ったそのとき、扉が開いてメイコが出てきた。
ホルストの姿を見て、立ち止まる。その膝が、がくがくと震えていた。
目線と首を動かし、メイコの姿を認めたホルストは、わずかに笑った。
「……小娘が」
ホルストと目があった瞬間、メイコの膝が大きく揺らぎ、貨幣の袋を抱えたままがくりと膝をついた。内腿を生温かい液体が伝って流れていくのをメイコは感じた。
「ホルスト、様……」
「……馬鹿が。次に女王に刃向かうときは、おしめでも履いていくんだな」
人がばらばらと集まってきた。「ホルスト様」「ホルスト様?!」
カーテンがはずされ担架代わりにしようとした兵士たちを、ガクはうなずいてホルストを促す。
ホルストは、地面をじっとにらみ、ガクの肩に体重を預けた。
「行ってもらいたい所がある」
即席の担架に乗せられながら、ホルストはつぶやいた。
「王と、王妃の墓はどこだ」
* *
担架が運ばれていったのは、王宮の中庭の隅だった。
「こんなところに、」
中庭は広い。芝生と木立、そして季節の花の咲く茂みが配置され、小さな起伏もある。その片隅に、真新しい盛り土があった。
「このような扱いを受けていようとは……」
周りの制止を押しのけて、ホルストは担架から降りようとする。ついに見かねたガクがその体を支えて、彼の望みどおりに担架から降ろした。
「王様、王妃様……」
「……なにぶん、非常時だということでしたので」
兵士が沈痛な面持ちでつぶやいた。
無縁者の墓よりも簡素な盛り土の上に、王家の美しい紋章入りの大きな布がかけてあるだけまだましというものだろう。
「ホルスト様、」
「触るな、ネズミ」
ホルストは、手を貸そうとしたメイコを撥ね付けた。
「……だから私は王様に申し上げたのだ。平民に教育を任せるなど、失敗すると」
ホルストが這うように盛り土の側にすりより、その額を地面に押し付ける。
「なあ。ユドルの赤いネズミ。黄の国に大きく貢献したこの私を斬らせるなどと、貴様の女王教育はみごとに失敗したわけだが」
メイコは、体に巻きつけた布を引き寄せ、唇をかみ締め立ち尽くす。
「……はたして、王の目指した成功とは、どういう状態だったのであろうな」
ホルストがわずかに額を地面から浮かせる。泥が顔にこびりつき、その壮絶な表情がじっと王の墓を見据えていた。
「……貴様が王子と王女の教育係になることを、私は真っ先に反対した。
理由は、わかるだろう。貴様は庶民、王子と王女は、やがてこの国を背負って立つ存在だ。立場が違う」
メイコは黙ったまま続きを待った。
「ふん。やっと、ぎゃんぎゃんわめかなくなったな。歳を経て、少しは物が解ったか。
……そうだ。王は、人とは違う。
人を治めるものは、人であってはならぬのだ。
守るべき民を守るため、その民の未来を守るため、あえて非道を行うこともある。
……弱きものを助けるために、同じ弱きものを切り捨てることもせねばならぬ。
まるで、そうだな。神に近い所業であるの」
ホルストが、くっと息だけで笑った。
「それを、何だ。王はな、こう言ったのだ。
『これからの時代は、民の声を聞かねばならぬ。民の声の聞こえる王でなければならぬ。そうでなければ、緑の国や青の国と並ぶことは出来ない』とな」
そのころ、工芸の国、緑の国と、豊かな資源国、青の国はかつてないほど急速に力をつけてきていた。緑は身分を問わない王の育成制度を持っており、青の国は議会という地区代表者の集まる会議で政治が行われていた。王が世襲で行う政治は、過去のことになりつつあったのだ。
「……たしかに、王様は、教育係として私を雇う時におっしゃいました。他国の状況と黄の民の生活を良く知る私に、次の世代を教えてほしいと」
「……下らぬな。庶民感覚の王など、何も為すことは出来ぬ。庶民が何の力も持たないことと同じように」
おもわずメイコは反駁しかけた。しかし、その声は遮られた。ホルストが、盛り土に手をかけ、王家の紋章の入った布をわしづかみにしたのだ。
「ホルスト様!」
「ホルスト殿!」
その暴挙ともいえる行動にガクとメイコ、そして担架を支えてきた兵士が思わず駆け寄る。
「黙れ!」
ホルストの怒号が空に突き抜けた。
腹を刺されたとは思えぬ強い響きに、近寄ろうとしたすべての人が止まった。腹の傷からぼたぼたと血が落ち、王家の布を赤く染めて盛り土に吸い込まれていく。
「私は、悔しい! くやしくて口惜しくてかなわぬ!
王よ! 王妃よ! お恨み申し上げます!
どうして、……どうして、最後まで、あなた方を信じさせてくださらなかったのか!
たとえ他の国の政治がどのような形であろうと、緑や青がどれだけ発展していこうと、われら黄の国は我らのやりかたで強くなると!
『時代遅れと呼ばれようと構うものか、諸侯らよ、王のわれについてこい!』と、どうして貴方様ほどの方が、おっしゃってくださらなんだ……!!」
「主どの!」
ガクが駆け寄った。ホルストの体が、どうと盛り土の上に倒れたのだ。
「ホルスト様!」
メイコも駆け寄った。その頬に、流れ続ける透明な涙があった。
ホルストの喉から、雄たけびが上がった。絶えゆく命の残りを燃やし尽くすような、それは天を焦がす感情のほとばしりだった。
「……この無念の血、最後まで王に捧げようぞ! 王よ、王妃よ、死に絶えたものよ、貴方様の娘、リン女王陛下に賜ったこの傷で、敬愛するあなた方に最後の一滴まで私の血を捧げよう!」
ずる、とホルストの体が布の上で動き、メイコが思わず手を伸ばした瞬間、ホルストが左腕で体を支えて上体を起こし、その右手がメイコの心臓の左胸をわし掴んだ。
「小娘! 王が望んだように、貴様らネズミどもがこの国の主だなどと抜かすなら……」
ぐ、とホルストがメイコの体に体重をかけた。
「責任を、取って見せよ」
ホルストの血で、王家の紋章が染まっていく。メイコの胸を掴んだ手が、やがてずるりと滑り落ちた。
メイコの胸には、真っ赤な手形が残され、彼女はただひたすらに泣きじゃくった。
「ホルスト様……」
「ホルスト殿!」
ガクが側に寄り、ゆっくりとホルストを抱えて仰向かせた。
額と顔についた血と泥を拭い、盛り土の傾斜にその体を横たえた。
「……ガク」
「……はい」
ホルストの見上げる視線を、ガクが医師の顔で受け止めた。
死に臨む患者をおだやかに見送る、医師の顔だった。
「ガクよ、わたしは」
木漏れ日が差し込み、風が吹いた。熱く乾いた夏の風だが、ホルストはまるで涼風に撫でられたように微笑んだ。
「生きたい。生きて、この国の行く末を見たい。」
……それがホルストの最期の言葉となった。
続く。
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