これは、とある小さな町で起こった、ごくごく平凡な本当の話である。
「ねぇねぇ後輩君」
それまで黙々と本を読んでいた先輩がいきなり呼びかけてきたので、僕はパソコンから顔を上げた。
所は図書室。放課後の人が少ない室内には、図書委員の僕と本が好きな先輩くらいしかいない。
穏やかな笑顔を浮かべた先輩は、その笑顔にそぐわない言葉を口にした。
「知ってた?この学校の近くにね、殺人事件が起こった家があるんだって。包丁を持った男が押し込んできて、お母さんと5歳の男の子を刺し殺しちゃったの」
「…はぁ」
「あ、ちなみにね、犯人はまだ捕まってないのよ。15年前の事件だから、もう時効になっちゃったけど」
だから何だと言うのだろう。
僕は先輩の言葉の続きを待ったのだけど、どうやらそれで話は終わりらしく、先輩はまた本の続きを読み始めてしまった。
僕はちょっと先輩の顔を眺めた後、まぁいいか、と苦笑して、やりかけの仕事に戻ることにした。
その日の帰り道。僕はいつものように、家の近くの細い路地をのんびりと歩いていた。
イヤホンを耳に突っ込んでたらたらと足を進めながら、頭の中では先輩の言葉がリフレインする。
『知ってた?この学校の近くにね、殺人事件が起こった家があるんだって』
その家は一体どこにあるのだろうか。どうせなら先輩も、どこにあるのかまで教えてくれればよかったのに。それとも、この話自体は只の噂で、そんな家はどこにもないのかもしれない。
そう思いながら、曲がりくねった路地の角を曲がる。
瞬間、とん、と、軽い衝撃が腹部にかかった。よろめきながら立ち止まって見下ろすと、僕のお腹くらいまでの背をした男の子が、僕のお腹にしがみついていた。
「…え?」
「お兄ちゃん…」
「お兄ちゃん?え、僕が?」
「お兄ちゃん…」
お兄ちゃん、と繰り返す男の子。僕は軽くパニックになる。
僕は一人っ子だ。当然弟なんていないし、だから単純に、年上の男をお兄ちゃんと呼んでいるだけなのかもしれないけれど。
…でも、何で僕?
「…あの、どうしたの?迷子?」
「…お兄ちゃん、僕、お家に帰りたい…」
「あー…家の場所は?分かる?」
うわ迷子か、と身構えてしまったが、意外なことに男の子は「分かる」と頷いた。僕はホッとする。
「そっか。じゃぁ、家まで送ってあげるよ。連れて行ってくれる?」
「…うん」
男の子はこくりと頷くと、僕の服を掴んで歩き出した。僕もそれについて歩き出す。
ゆっくりゆっくり、男の子について歩きながら、僕はその道順に、ふと首を傾げる。
…この道って…僕の家に向かう道と同じじゃないか…?
近所にこんな小さな子、住んでたっけ…
そう思いながら、見慣れた家の前を一軒過ぎ、二軒過ぎ、角を曲がり、僕は段々と、段々と、足取りが重くなってくる。
これは、この家の前を通り過ぎたら、そこにあるのは…
「な、なぁ、君の家って本当に…」
こっちで合ってるのか、と聞こうとした。
すると突然、男の子は僕の服を離して小走りに、一軒の家の前まで駆けて行った。
見慣れた一戸建て。見慣れた門。見慣れた庭。見慣れた植え込み。
…僕の家だった。
「お兄ちゃん…」
立ち止まった男の子が、そこで初めて、顔を上げる。
真っ赤な血で染まった、真っ青なその顔を。
「う、うわぁぁぁぁ!!!?」
「お兄ちゃん、お家に帰りたいよう…」
ごぼり、と、男の子の口から、赤黒い血が流れ出す。ごぼごぼと、くぐもった音を立てながら、男の子は動けない僕にゆっくりと近づいてくる。
その腹の真ん中には、肉切り包丁が深々と刺さっている。
「く、来るな…!」
「お兄ちゃん…」
「来るな…来るな来るな来るなぁぁぁぁ!!!」
とっさに腕で顔をかばって、全てを拒絶するように背中を向けた。
………
どれくらい数えただろう。
恐る恐る振り向くと、そこには何も、誰も、いなかった。
僕は茫然と立ち尽くし、やがて、たまたま外に出てきた母が「どうしたの?中に入りなさいよ」と声をかけてくれるまで、一歩も動くことができなかった。
『包丁を持った男が押し込んできて、お母さんと5歳の男の子を刺し殺しちゃったんだって…』
先輩の声が、耳の奥で響く。
まさか、まさか…あの子供は…
次の日、先輩に、昨日話していた殺人事件について教えてほしいと頼むと、先輩は何でもないように「あぁ、それね」と説明してくれた。
「お母さんと子供が殺された後、旦那さんはすぐに引っ越したらしいの。元々その家、貸家だったんだって。それで、当然誰も住みたがらなかったからしばらく放置されてたんだけどね、5年前位に、事情を知らない誰かさんが引っ越してきたのよ」
「…つまり、それが…」
「うん。君の家よ、後輩君」
先輩は、青ざめる僕を見て、心底楽しそうに笑った。
<FIN>
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