補導員の行き来している通りは、大体把握している。レンは、「警戒網」を切り抜け、家に帰った。
外から見ると非常に古い家だが、内装はリフォームされていて、そこそこ小奇麗だ。
リビングに、白い髪の女性がいた。イアだ。通勤用の紫色のスーツを着て、ソファに座っている。
「レン。しばらく、物置に居て」リンが畳んだ服を抱えながら声をかけて来た。「今からイアさんが着替えるから」
「上手く事は運んだようだけど、ちょっと待ってくれ」と言って、レンは自分に憑りつかせてきた女性の影を、指で示した。「この人も、少々困ったことに成ってたらしくてな」
「何その人」と、リンもさほど動じる風でも無く言う。「別件で何かあったの?」
レンは、「別件」と呼び合っている、グミの件について、手短に話した。
「そっか。でも、ミク姉は今、買い物に行ってる。いつものコンビニまで」と、リン。「物置でそのお母さんと話し合ってて」
結局レンは家から追い出され、敷地内にある一畳程度の物置に身をひそめることになった。
禍々しい者達から解き放たれた女性の影は、ある程度の理性を取り戻しつつあった。喉から滴っていた血は止まり、真っ青だった顏は白い輪郭を見せている。「私の娘は?」と、レンに聞く。
「あんたの娘さんは、病院」と、レンは言う。「あんたは、あの腐った『悪魔』共に、騙されてたんだよ」
「『悪魔』…」と呟いて、女性の影は何か考え込むように静かになった。
月の照らす星空の下を、ミクはエコバッグを持って家から近所のコンビニまでを往復していた。
おにぎり、パン、お菓子、カップ麺、ドリンク等、食べ盛りの双子の分を少し多めに買い、お客様用に、少しお高いプリンを用意した。
それから、すぐに食べる分の、出来合いの弁当を2つ買う。一つはイアの分、もう一つは双子の分。
ミクも何も食べないわけではないが、職業柄、太ることには少し抵抗がある。
仕事中はちゃんと15分づつ休憩を取らせてもらい、バックヤードでサンドイッチやカップ麺を食べているし、夜間に食事を摂るため、自分が太りやすい状態であることも心得ている。
でも、家で全く何も食べなかったら、双子がうるさい。おにぎりをひとつ余計に買い、切らしていたお茶をストックする。
なんだかんだで5千円ほどが飛んで行った。エコバッグがずっしりするほど買い込んでも、3日後にはこの食糧はほとんどなくなっているだろう。
店員に見送られて外に出ると、誰かが道の向こう側から歩いてきた。
遠目で観た雰囲気では、男性だ。夜間だと言うのにサングラスをかけている。目が悪い人だろうか。そんなことを思いながら、距離を取り、相手とは反対側の道を歩く。
下を向いて歩いていたが、「気配」が近くに来るのが分かった。
ミクは反射的に「力」を解放し、相手の目を見る。
だが、ミクの「力」は、特殊加工をされたサングラスで遮られた。見覚えのある、背の高い男性。
「カイト先生…」と、ミクは呟いてしまった。そして、しまった、と思った。何も言わなければ、唯の他人の空似で済ませられたかもしれない。
「ミク。やっぱり、ミクだね?」
そう言って、サングラスの男性はミクの肩に手をかける。「ずっと探してたんだ。良かった、無事で…」
ミクはその言葉を聞き、それに続く彼の言葉が分かってしまった。
コレデ、実験ヲ続ケラレル。
「いや!」と言って、ミクはカイトの手をはねのけ、逃げた。家に直行するようなへまはしない。少し遠回りになることを覚悟で、道の角をジグザクに曲がり、相手の視界から逃れた。
息苦しさから、ある角を曲がったところで立ち止まった。心臓が、倍速で鳴っている。
去年までは当たり前のように受け入れていた「実験台」としての施設生活に戻ることなど、もう考えられなかった。
少しの世間の荒波なんて、軽く飛び越えて行ける。だけど、あの施設に戻るのだけは嫌だ。あの檻の中。繰り返される手術。教諭…別の言い方をすれば、研究員の「悪意」が渦巻く、あの施設。
「ミク。君の能力は、まだまだ伸ばせる」
そう言い聞かされていた言葉が「励まし」だった時は、もう過ぎている。今や、あの言葉は呪いだ。「伸びしろ」が無くなれば、どうなるかを知ってしまったから。
ミクは、いつまでも立ち止まって居られないことを知った。カイトの気配が、少しずつ近づいて来ている。
足を引きずるように歩き、姿を見られないように家に帰った。
ミクは、玄関を通り扉を閉めると、意識が急速に失われて行った。重いバッグが先に床に落ち、ミクは気を失って倒れた。
「お帰り…」と言って、玄関に出てきたリンが、ミクを見つけて駆け寄った。「ミク姉! どうしたの?! どうしたの、ねぇ?! ミク姉! 返事して!」
リンが慌てていると、ミクの普段着を借りて着替えたイアが、リンの肩にそっと手を置いた。「リンちゃん、水と、濡らしたタオルを持ってきて」
リンが泣きそうな顔をしながら言われたものを用意していると、イアは脱力しているミクの体を背負って、居間まで運んだ。
見た目と変わらず、ひどく軽い体だ。セーターの下は、きっと肋骨が浮いているだろう。
この、不思議な力を持った子供達が、何故こんな極貧の生活をしながら、世間に隠れるように生きているのか。その事を、イアは初めて疑問に思った。
そして、彼等の力になりたいと。
一晩眠りこんで、ミクは翌日の昼下がりに目を覚ました。布団の中で目を開けると、自然に時計に目が向く。出勤の時間が近づいている。どんなことがあっても、習慣と言うのは身につくものだ。
「ミク姉。まだ眠ってて良いよ」リンが寝室に顔を出して言う。「仕事先には、熱出したって言っておいた」
「でも…。うん…。ありがと…」と言って、ミクは何かから身を護るように、再び布団にくるまった。
「カイト先生」は、ミクの担任だった。つまり、ミクを含め数十人の子供達の実験を監督する係。普段から子供達の様子を見て、利用できる「力」を持つ子供を、「開発部」に紹介するのだ。
私は、もう、合唱部のミクちゃんじゃない…。ミクはそう思って、目を閉じた。何も考えないように。眠りが、全てを遠ざけてくれるように。
「ミク姉、疲れてるみたいだし、別件は私達だけでなんとかしよう」リンは、いいかげん神経が参り始めているレンに言った。レンが自分に女性の影を憑依させてから、16時間が経過している。
「おう。俺達だけでも、ちゃんと仕事が出来ることを…」と言いかけ、「今は話しかけないでくれ。俺の思考とごちゃごちゃになる」と、自分に憑依させた女性の影に言う。
ほぼ理性を取り戻した女性の影は、自分の娘と夫が心配で仕方ないらしい。しきりに、レンに娘の居る場所に連れて行ってくれと訴えているのだ。
「娘さんは、まだ病院に居るのかな? 状態が良ければ、もう退院してるかもしれないし」と、リン。
「早く行動しよう。たぶん、この『お母さん』と、娘さんの魂の色は似てるはずだ」と言うレンは、ひどく疲れ切っている。「なるべく、俺が死なないうちに…」
「一度、『影』を憑りつかせると、そうなるんだね。勉強に成るよ」と、リンは言ってハハッと笑う。「イアさん、ミク姉をよろしく。夕方までには帰ってくる」
リンが、キッチンに立っているイアに言う。
「気を付けて」とだけ言って、イアは二人を見送った。
先日レンが押し掛けた病院に行き、受付の人が交代に行った隙に、双子は侵入に成功した。
レンが暗記していた病室に行くと、医者と看護師と、普段着に着替えたグミ、それから明るい顔をした父親が、別れの挨拶をしていた。
「居た。ギリギリ間に合った」と言って、リンとレンは病室の外のソファに座って待っていた。
だが、レンの様子がおかしい。目が虚ろで、何処を見ているか分からない。
「お世話になりました」とグミが言って、父親と共に病室を出てくると、レンの顔つきが変わった。立ち上がって、「メグミ!」と呼びかける。
どうやら、それはグミの本名らしい。
驚いたようにレンのほうを見て、グミは目をぱちぱちさせている。「誰?」
そう問われても、レンは何も言わず、目に涙を浮かべる。「ごめんなさい。私が、私が弱かったから…」と、レンは中年女性のような声で言い、グミに抱き着いた。
グミの視界に、亡き母の影が見えた。レンの体に重なるように。闘病中の痩せた姿のままではない。グミが幼い頃見た、まだ健康な体だったときの姿が。
「お母さん…」と呟いて、グミは言葉を失った。
居なくなった母を想って、寂しさや、辛さ、泣き出したい気持ちを抑え、それをいつか「軽蔑」と言う心に変化させていた、自分の「悪意」に気づいた。
当時、15歳だったグミには、その「悪意」は必要な心だった。生きていくために、自分を見失わないために、「軽蔑」という怒りを持って、悲しみを払拭していた。
しかし、いつしか、母の心を乗っ取り、死へ導いた「悪魔」は、グミの心も浸食していた。
記憶を歪め、彼女の中から、母との日常、思い出、安らぎを、忘れさせていた。
幼い頃の記憶を取り戻し、グミの目から涙がこぼれた。「お母さん…。死んじゃ、やだ…」と、幼い子供のように呟いた。
「ごめんね。ごめんね。私は、もう、何処にも行かない。ずっとメグミと一緒に居る。いつでも、いつでも、側に居るからね」と、グミの耳に母親の言葉が届いた。
「お母さん!」と言って、グミも、レンの体ごと母親の影を抱きしめた。
グミの心の中で、真っ白な光がはじけた。最後に残っていた、小さな「悪魔」が、消滅した。
リビングのほうから甘いものを焼いている香ばしいにおいがしてくる。ミクはひどく空腹なのに気付いた。
「ミクさん。起きれる?」と、イアが声をかけてくる。
「うん…」と答えて、居間に行くと、食事が用意されていた。潰したプリンと、牛乳と、食パンで作った、フレンチトーストもどき。
「ありあわせの物で作ったから、美味しいかわからないけど…」と言って、イアは元気づけるように笑顔を浮かべる。
「ありがとう…」と言って、ミクは温かいトーストを食べた。冷えていない食事を摂るのなんて、何ヶ月ぶりだろう。「美味しい」
「良かった。ご飯が食べれるなら、大丈夫よ」と、イアは言う。「私ね、考えたの。あなた達に恩返しするには、どうしたら良いか」
「恩なんて無いよ…。私達が、勝手にやってることだから」と、ミク。いつもの強気な声ではない。すっかり憔悴しきっている。
「あるわよ。その勝手のおかげで、私は命拾いしたんだもの」イアは、人が変わったように力強く言う。「困ったことがあったら、いつでも私に言って。必ず手助けする」
イアの菫色の目には、生きることを決めた者の強い光があった。「こう見えても、私も、ちゃんと職も家も持ってる大人なのよ?」
「じゃぁ、もしもの時は、助けてもらおうかな」少し笑顔を取り戻し、ミクは言う。「絶体絶命くらいに危なくなったら」
それを聞いて、イアはフフッと笑った。「ええ。ピンチの時は駆けつけるからね?」
「イアさん、ヒーローみたい」と言うミクは、自分がやけに幼く思えた。
グミの母親の影は、宣言通り、グミの傍らに残った。娘を脅かす「悪魔」としてではなく、我が子を護る「守護者」として。
「あの人、きっともう大丈夫だ」と、帰り道でリンは言った。「でも、良いのかね? 少年。妙齢のご婦人とハグしちゃったりして」
「親子の感動の対面の時に、お前はそんなこと考えてたのか?」と、レン。目は腫れ、グミの母親が流した涙の痕が、頬に残っている。「俺の意識は無かったよ」
「でも、感触とか残ってるでしょ? あのお姉さん、かなり良い胸してたし」と言ってリンはニヤニヤする。
「ふざけんな」と、言って、レンはリンの頭を軽く小突いた。
「いったーい。何すんのよ! ミク姉に言いつけるからね! レンが、胸のでっかいお姉さんとハグしてたって!」
「胸とか関係ないだろ!」
「何よ。普段、私に散々『まな板』だの『胸筋つければ?』だの言ってるくせに!」
「それは唯の率直な意見だ」
「何が意見よ!」
ひとしきりギャーギャー言い合いながら、双子は夕暮れの街を歩いて行った。
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Re:sui
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