19.凶気と絶望の使い
ミクの足が地面に描き出した二本の線からは、煙が立ち上っている。
ライムは、少女の顔を少し下から眺めている。
彼の体は、上向きのまま未だに宙に浮いたままで、その足は未だに地面を捉えていない。
少年を抱えている少女が、ふいに目線を落とした。少年と少女の目線がぴたりと重なる。
ライムの体は一瞬硬直し、やがてせきをきったように足をじたばたと動かし始めた。
少女は腕の上で暴れだした少年を、危険の無いようにゆっくり丁寧に地面に降ろした。
自分の足が地面を捉えると、急に落ち着いたのか、少年は乱れた呼吸を整えた。
その呼吸の乱れ具合は、急に暴れたことによるものだけでは無かった。
心拍のリズムも速くなり、より呼吸を乱す原因になっている。
しかし、それは恐怖によるものだけでは無かった。
「ご、ごめんなさい……」
突然暴れたことをすぐさま謝罪した少年は顔をあげると、
目の前に立っている少女が纏っているコートの右腕のところが少しだけ切れて、
その切れ目から、真っ赤な血がにじみ出てきているのが目に入って来た。
二階から飛び降りた際に、一緒に宙に舞い散った窓ガラスの破片で切ったのかもしれない。
自分の体には、傷ひとつない……。
少年の心は申し訳ないような、情けないような気持ちでいっぱいになった。
なぜ情けない気持ちが溢れて来たのか、まだ幼い彼は、はっきりとは理解していないが、
いわゆる”男”としての意識の芽生えであったのだろう。
自分のせいで傷ついてしまった彼女に対して、無意識にライムは傷口に手を伸ばした。
しかし、傷口に指の先が到達する前に、彼の手を少女の手が優しく包み込んだ。
少年が少女の顔を見ると、少女はゆっくりと”こうべ”を横に振っている。
彼女はそのまま、少年の手を優しく押し返した。
彼女から流れでる赤い血……その血にまで彼女の発生させた電流は通電している。
あのまま、少年が傷口に触れれば、たちどころに感電してしまっていたことだろう。
先程からミクがライムに触れているのは、絶縁布で出来たコートや手袋越しだからであり、
別段、奇跡の類が起こっているというわけではなかった。
少女と一枚の布越しに手をつないでいる少年の後ろの方から、
リズムよく手を叩く音が聞こえてきた。
少年が後ろを振り返ると、そこには何かを称えるかのように拍手をしている男の姿があった。
遠くからでも、その鋭利な目つきをはっきりと見てとることができる。
拍手をしながら、男は先程飛散した窓ガラスの破片をじゃりじゃりと音をたてて、
砕きながら、ゆっくりと二人に近づいている。
近づくにつれ、はっきりと見えてくるその男の姿――
この男から二人は、今しがた逃げてきたのに……。
鋭い目の男は拍手を止め、不気味に笑ってみせた。
「いやー、まさか窓を突き破って逃げるとはね……。予想もしてなかったよ。
ほんとに君はおもしろいね。出会い頭の一撃もよかったよ。いや、まぢで……」
男からは驚くほどの余裕がうかがえる。それはこの場での立場を明確に反映している。
ミクの出会い頭の一発も、予想だにしない逃走も、結局は徒労に終わってしまっていた。
男の冷たい笑い声の一つ一つがライムの体を急激に縛り付けていく。
気がつけば、男の服装は先程までの執事服ではなく、
見るからに禍々しい凶気をまとった衣装に変わっている。
もはや、変装の意味などないからであろう。
つまりそれは、男が目的を完遂する目前であることを暗に示している。
男と少年の距離はもう数メートルしかない。その間にミクが割り込むように立ち阻んだ。
少年の目に、少女の背中が映る。すると、彼を縛り付けていたモノがするりと消えていった。
凶気をまとった男の歩みが、ついに止まった。
「いまだ、この少年を守るか? いい心がけだ。まさに騎士の鏡だな」
ミクはただ無言で、男をにらみ続けている。
「そう怖い顔するなよぉ。その心意気に感心してんだから……そうだな」
男はわざとらしく、何やら考え込む”そぶり”を見せる。
「……そうだ、そんな感心な君たちにプレゼントをあげようかな」
男の言葉は、ひどくセリフくさく聞こえる。
男は右手を天高く掲げた。そして、親指と中指をくっつけるように合わせた。
暗闇の中、闇雲に手探りで廊下を進んでいる男がいた。
男は後悔していた。大切なものからほんの一瞬でも離れてしまったことを。
もはや、来た道もわからない。ただ見知らぬ暗闇の迷宮を孤独に彷徨っていた。
「何がどうなっとるんじゃ。ミクは、ミクの所へもどらねば……」
突然、廊下の遥か前方を光が走りぬけた。
目には光の線が残像として焼きついている。
男はその光を追いかけた。しかし、その光は彼が走るより、遥かに速く駆け抜けていった。
彼がやがて追跡を諦めようとした時、遠くでガラスが割れる音が聞こえた。
音がどこから聞こえたのかは、はっきりとわからない。
しかし、聞こえてきた方角に目を向けると、そこに扉が見えた。
男はその扉へ向かって走り始めた。扉はかすかに開き、その隙間から月光が漏れている。
扉の向こうは外のようだった。老人は、勢いよく扉を開き、外へと出た。
外は先程までの暗闇に比べて、遥かに明るかった。
老人は、前方に立っているいくつかのの人影に気付いた。
一番手前の人間は、なぜか片手を上に上げている。
その奥に見えるのは、まぎれもなく老人が探していた人物だった。
「おーい、無事じゃったかー。心配したんじゃぞー?」
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天高く掲げられた凶気の男の指がこすれて、パチンという乾いた音が辺りに響いた。
男の笑みを浮かべる口からは、真っ白な歯が見てとれる。
真っ先に感じたのは、光? それとも音?
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そして、最後は恐怖と絶望――。
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