55.5 間章 ~リンとルカ。カイトとメイコ~
空を焦がす夕焼けが去り、夕闇が激動の黄の国にゆっくりと降りてきた。行交う人は皆興奮し、すべての通りが祭りのように沸き立っている。
人々の顔は、夏の日照りにさらされて、乾き、汚れ、やせ細ってはいたが、今や疲れ切った表情をする者はいなかった。
戸惑い、騒ぎつつも、その声には張りがあり、瞳には輝きがあった。
今やただのリンとなった女王リンが、人々の間をさまようように抜けていく。
帽子を目深にかぶり、うつむき、その視界に入るのは、灰色の石畳だけであった。
空がまた一段暗くなる。
リンは、さまよい果て、小さな路地に入り込んだ。それほど高くもないレンガ造りの建物が、リンの上に覆いかぶさるように暗い影を落とす。黄の民の特徴である明るい黄色の髪も、光を拾うことは出来なかった。
徐々に深くなる闇に埋もれていくリンは、そのままふらりと日干し煉瓦の壁に肩を預けた。そしてずるずると地面に座り込む。
もう、言葉も涙も出なかった。
女王としてのリンは死んだ。今生き残ったリンは、魂の絞り粕だ。 レンは生きろと言ったが、絞り粕が生きて国を見届けることに、なんの意味があろう。このまましぼんでしまって、煉瓦に吸われて消えてしまえばよいのにと、リンは思った。
「レン……」
その時、ぽろんとひとつ、弦の音が響いた。
リンがゆるりと視線を上げる。
そこに、黒いベールと衣装を纏った、桃色の髪の『巡り音』が居た。
「ルカ……」
闇の中に、ルカの白い顔と桃色の髪が浮かんで見えた。
「……あなたの瞳を曇らせるものは、過去ですか」
その言葉に、ぎょっとリンが顔を上げる。
「それとも……未来ですか」
初めて出会ったときも、この様に呼びかけられたなとリンは思い出していた。
『あなたの心を曇らせるものは、恋ですか。それとも、夢ですか』
「その時は、」
在りし日の思い出が、悲しみとなってうねりを上げ、リンを襲い飲み込んだ。
「その時はまだ、わたしは王女だった。その時はまだ、レンは生きていた。その時、まだレンとわたしは、ただ夢だけ見て笑っていた」
だんだんとリンの声が大きくなり、やがてルカに叩きつけるようにリンは叫ぶ。
「そのときはまだ、王様も王妃様も生きていた。わたしにとっては嫌な人達だったけど諸侯たちも生きていた。わたしも、わたしも……」
「いいのですよ」
ルカにむかってまっすぐ叫んでいるのに、リンはルカを見ていない。遠い過去を見ているとルカは思った。
「無理に、幸せだと思わなくても、いいのですよ。
あの時も、おつらかったでしょう。お飾りの王女だと呼ばれて。
……今も、幸せではないのでしょう。大事な人を失って」
リンの視線の焦点が、初めてルカの顔で結ばれた。
「なぜ」
リンが声の限りに絶叫した。
「なぜ、わたしは、幸せで無いの!」
あの頃は皆が居た。レンが手をかしてくれて、女王になった。メイコを巻き込んで、黄の国を生まれ変わらせた。
「わたしは、幸せでなくちゃいけないのだわ! 王女の時は、大好きな皆が支えてくれた!女王の時は、力を手にしていた!ただの人になった今は、黄の民をしあわせにするという夢が叶った!
……わたしは、幸せなはずよ!
多くの人を不幸にして、黄の民や諸侯たちや、王様や王妃様……たくさんの命を奪って掴んだ幸せなのに! わたし自身がちゃんと幸せだと思わないと、あんまりだわ……」
ルカは、壁に楽器を立て掛けて置き、絶叫するリンに近づいた。
「向上心」
そしてルカは静かに、石畳に座り込むリンの肩を抱いた。夜よりも深い黒色のベールが、リンの視界をそっと覆った。
「人は、幸せになりたいと思う。誰かを、幸せにしたいと思う。そのために、争い、戦い、傷つき、苦しむ。誰かを不幸にして、自分も不幸になる……それで良いと思うの」
リンの体は震えたままだ。
「幸せになりたい。その向上心があるかぎり、人は不幸になりつづける。
それでも、人は幸せを探す。……それは、悪いことではないと、私は思うわ。
現に今だって」
ルカの手が、そっとリンの背に回される。その感触に導かれるように、リンがふと顔を上げる。遠く、近く、賑やかな喧騒が聞こえてくる。
「どう。聞こえる。……あなたの黄の民が、喜んでいる。あなたの不幸が、あの喜びを生んだのよ」
ルカの瞳が、じ、とリンの目を捕らえた。まなじりが和み、ルカが再び胸にリンを抱いた。
「……その意味では、あなたは、立派な女王だったわ」
その瞬間、ことりとリンの表情が抜け落ちた。目をいっぱいに見開いて、闇のすべてを吸い尽くすように瞳孔を見開き、その場で動かなくなった。
もう、体は震えてはいない。
ただ、真白に握りしめられた両手だけが、ルカの黒の衣をがっちりと意志を持って掴んでいた。
その時、壁に立てかけたルカの弦楽器が、ポロンとなった。
「あら」
ルカは楽器を見、そして空を見上げた。
「気づかなかったわ」
ルカの見上げた先に、厚い雲で真黒に塗りつぶされた夜空が見えた。
やがて、黄の渇いた大地に、ポツリ、ポツリ、と雨が降ってきた。
実に数か月ぶりの、雨であった。それは生まれ変わった黄の国に授けられた洗礼のように、しずかにしずかに降り続いた。
* *
「お久しぶりです。カイト皇子」
メイコは、黄の国の玉座ではなく、会議室でカイトを迎えた。
『暴虐を繰り返す黄の国に、正義の鉄槌を下す』
青の国が、そう布告して、軍船を揃えて黄の大陸へ向かってきていたことを、メイコは『巡り音』の情報網を使って知った。
『巡り音』は、情報を扱う商売柄、『鷹使い』と縁を持つ者も多い。伝書バトを狩ることで情報を得る『鷹使い』は極秘情報を扱う商人や貴族、王族に雇われている。黄の国に居た鷹使いは、貴族がいなくなったことで失業したが、かわりに情報をつかもうとする『巡り音』たちに雇われた。
メイコも、『巡り音』のルカを雇っている。彼女を起点に広がる人脈と情報網は、黄の王都から緑の国、そして青の国に達しており、商船と港を結ぶ海路が特に緻密に編まれていた。ルカが彼女の縁者の『鳩使い』や『鷹使い』から引き出した情報は、国を興したばかりのメイコにとって、とても重宝するものばかりだった。
青の国の到達は早かった。緑の国が黄の国の手に落ちたときにすでに準備されていたのだろう、青の軍船が黄と緑の大陸の水平線にずらりとならんだのは、黄の革命の一日後のことであった。
間にあった、とメイコは思ってしまった。あと一歩でも混乱が長引いていたら、青の軍は、黄の国の混乱を抑えることを旗印に、黄の国へ堂々と侵入していたことだろう。
急いで緑の国の統治官であるセベクに、青の皇子を国賓として迎え入れることを伝達し、緑の民の代表のツヒサにもメイコ自身が礼をつくして、どうかセベクに協力してくれるよう求めた。
黄の国の元諸侯の中でも、統治官という身分であったために、セベクは「緑の国が安定するまで」仕事を任されることとなった。
「同郷のユドル贔屓だと言われないかね?」
とセベクは心配していたが、先の緑との戦争で、旅慣れたユドルの民に世話になった黄の民も多く、また黄の国の辺境のユドル出身の者が、やっかいな緑の国の統治を任されたからと言って文句を言うものも少なかった。
そして奇しくも、青の国という外国からの脅威が、黄の民の結束を高めたのである。
「メイコを助けて、黄の国を守れ」
「掴んだ俺たちの権利を守れ!」
そして、メイコは危機をまたとない好機に変え、青の皇子カイトを、黄の国の王宮の会議室で迎えたのである。
「まさか、リン様の教育係であった貴女が、こんな手段に出るとはね……実に、驚きました。革命を起こし、リン様を殺し、王位を獲った」
カイトの第一声は、あきらかなる非難だった。だが、メイコは動じなかった。
わざわざ品のない非難を向けるということは、カイト皇子はわざとゆさぶりをかけて、メイコの力量を測ろうとしているのであろうと。
「そして、今は貴女が王というのですね。メイコ」
にこり、とメイコは微笑んだ。カイトも真面目なまなざしを崩さない。
「いいえ」
メイコは口を開いた。
「『代表』とお呼びください、カイト様。私は、徳をもって国を治める『王』ではありません。利益を以て国を率いる、ただの『代表』です」
ほう、とカイトが目を丸くした。その瞳が面白いものを見つけたかのように輝く。
「メイコさんは、元はユドルの商人だったと聞いた。それは面白い表現ですね」
メイコはうなずく。同席している緑の民の代表のツヒサ、そして統治官のセベクがその通りだと同意する。
「なるほど、黄の民はあなたの隊商の隊員ということですね」
カイトの問いに、メイコは答えた。
「ええ。任期は6年。もし無能であれば、6年を待たずに投票で私を引き下ろすことができます」
「それは本当に隊商のようだ!」
カイトが大いに笑い、メイコもそうでしょうと同意した。
「では、さっそく商談に入りましょうか、メイコさん」
「その前にひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか。……カイト様が私をメイコさんと呼ぶなら、私も、カイトさんとお呼びしてよろしいのかしら?」
強大な国力を持つ青の皇子に堂々と言ってのけたメイコに、目を見張ったのは緑の国のツヒサであった。
「私ならば、へりくだって切り抜けようとしようものを……」
そんなツヒサにくるりといたずらっぽい目をやったのち、メイコはカイトに向き直り、微笑んだ。カイトは一瞬驚いた表情を作った。しかしそれもわずかな間のことで、すぐにふっと息をつき、彼もまた、微笑み返した。
「参りました。では改めて。メイコさん。『新生黄の国』は、わが青の国にも利をもたらしていただけますか?」
すぐさま適応してくるのは、おおらかな青の民の特徴だ。その柔軟性は、メイコにとってありがたいものであった。
「もちろんですわ、カイトさん。私が目指すものは、黄と緑、その商売の相手となる青の幸せです。
関わる人、みなが幸せに。
これが、私の商売ですわ」
涼やかな秋の風が、円卓を囲むメイコ、カイト、そしてセベクにツヒサをかすめて行った。
そろそろ、小麦の種まきの季節である。
ほどよく湿った土の香りに、この大陸生まれのカイト以外の全員が、思わず視線を窓の外に向ける。
「どうかしましたか」
カイトの問いに、メイコは、久しぶりに、自然に笑顔を浮かべた。
「……次の一年は、いい年になりますわ。きっと何もかもうまくいく。
この間の、カイトさんの成人の儀にお招きいただいたときに、まとめたものがあります。
黄の国の薬草、緑の国の精製技術、そして青の国の市場。
ともに歩んで見ません? カイトさん?」
そしてメイコは資料を広げ始めた。
青の国で、リンとともに見聞きし、彼女とともにまとめ上げた、商品となる薬草のリストであった。
黄の、この夏は旱魃であった。
乾燥に強い薬草は、強い成分を体内に蓄えている。
過去から続くすべての事象が、メイコの商感を風として受け、前に向かって進み始めた。
大国である青の国と対等に渡り合う。
新しい黄の国が本当の意味で生まれおちた瞬間であった。
……つづく!
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