「僕、ついて行こうか」
「しつこいって。一人でいいって言ってるでしょ?」
清水谷と取引して、初音ミクのマスターである慈善家、美木に会うアポイントを取り付けさせた。コンサート開催日に近づけば近づくほど、私がもぐりこめる望みは薄くなる。なんとか無理矢理捻じ込んだ一番早く彼女にあえる日和、それが今日。成り行きが成り行きだけにごく短い会談を取り付けただけだが、カイトは朝早くから落ち着かない様子でついて行こうかついて行こうかと繰り返し申し出た。
そのせいだか知らないが、リンやレン、メイコまで落ち着きなく歩き回り、「じゃあ私は?」「じゃあオレは?」なんて言い出す始末。 そのたびに一人でいいと言い返しながら、朝食を早めに済ませ、いつもは着ないぱりっとしたスーツを着込み、髪もしっかりと仕事スタイルに束ね、スーツに似合う仕事用の鞄を持つ。 靴箱の奥から低めの黒いヒールを引っ張り出して埃を払って履く。
「んじゃ行ってきます。留守番よろしく。ガスの元栓には気をつけたまえ」
「車に気をつけて。知らない人についていってはいけませんよ」
笑顔でそう冗談を言うメイコの両脇に、心配そうな眼差しの青い巨大な犬と金色の双子の子犬が…。 ため息をついてカイトに指先を突きつけ、「しっかりしろ」と言い放つ。
「カイト、あんた、ウチでは古株でしょ。 あんたがしっかりしないでどーすんの。 ああめーちゃんがしっかりしてるからいいのか? なっさけな」
「…物騒だろう、世間は」
“物騒”な“殺人犯”のことを言っているとわかっている。 カイトの心配の種がそこにあると、わかっている。 だが初音ミクを守ろうとしている以上、避けては通れない壁だ。 止めなければいけない狂気だ。
「…初音ミクは美木サマの側にはいないから、まだ、平気よ。 安心して待ってて頂戴」
「………。待ってるよ。 待ってる」
字面より重い意味を持つ言葉に、踵を返しばたばたと手を振ふることだけで返事をし、玄関の扉を押し開く。差し込む光と爽やかな午前の空気。 肺いっぱいに新しい酸素を取り込み、体の中に沈殿している悪いものを二酸化炭素と共に吐き出し、私という私を“新しく”変え、―――私の帰る場所を、閉じた。
* *
清水谷が経営するチェーンホテルの中でも、このドーム側のホテルは高級感溢れるつくりをしていた。特に背が高いというわけではないが、圧迫感を感じないよう建物の周辺は彼らが買い取り美しい芝生や木々が植えられている。 一階部分はガラスばりで、お茶を飲みながらのんびりとビル群を隠す木々を眺められるように設計されているようで、宿泊客たちの姿がちらほらあった。
慣れない高級な空気は着実に私の胃の負担を多くした。 受付に行く前にトイレに寄って、胃薬を数錠と、ついでに人と接する時のみつける眼鏡を鞄から取り出し、装備する。 目の前の薄いガラスが、自分をまるごと守ってくれるようで少しは気が楽になる。
トイレの鏡で自分の姿を再確認した後、いよいよ受付で清水谷の名前を出し美木の部屋番号を尋ねる。清水谷が先に連絡を入れておいたらしく案外すんなりと番号を教えてもらえた。全く揺れない不気味な程静かなエレベーターに乗って目的の階まで上がり、目的の部屋番号の書かれた扉をノックする。 扉の向こう側でかすかな足音が聞こえ、しばらくして扉が開かれた。
―――テレビや新聞で何度も見たことのある初老の女性。 綺麗なグレーの髪。洒落た洋服と、それに合わせた帽子。いっそくどいくらい身につけた宝石。 年齢よりずっと若く見えるしゃんとした立ち姿。 けばけばしいと通常の中間点程度の化粧を施した顔つきは、年齢を重ねた独特の穏やかさよりも寧ろ若い人間が見せる野心的な活力を感じさせた。
「どうぞ。清水谷さんからお話は伺っているわ」
「…失礼します」
どうやら私が思っていた以上に、美木という女性を相手に立ち回るのは大変そうだ。 そっと呼吸を整え、心を落ち着かせる。 ―――上手くやれるさ。 大丈夫、私なら。 言い聞かせて、凛と背筋を伸ばした。
To Be Next .
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ヘルケロ
ご意見・ご感想
なるほど
というか学生さんだったんですね!
てっきり大人のお方かと
文が本当にうまいですし、言葉も礼儀正しいので
2009/08/21 17:23:47
雨鳴
その他
筆記するのが字のちっさい人だと大変です(汗)
2009/08/21 15:11:05
ヘルケロ
ご意見・ご感想
なるほど
学校大変ですか?
2009/08/21 10:19:59
雨鳴
その他
道路標識だとか黒板だとか、遠くのものを見る時に眼鏡がないとはっきり見えないので…!
でも普段はそうたいして遠くのものがしっかり見えなくても生活出来るので、
外したままでいます。
2009/08/21 09:53:35