39.ミクの命
夜の闇に鋭く響いた笛の音。それを聞いた瞬間、召使の姿をしたリンは、手持ちの荷物に火打石を打った。
乾いた縄に火花が散る。鞄の布の端に着火したことを確認すると、リンはその鞄を与えられた控え室に置いたまま、部屋を走り出た。
「あっ。どこへ行かれます……」
扉の前で控えていた緑の国の召使の言葉をすべて聞くことはなかった。
耳をつんざくような、落雷のような轟音が、リンの居た控えの間を吹き飛ばした。そして抜けた天井を突き抜けて、空高く花火が上がった。
遠雷のような音がした。夜空が一瞬だけ黄色の光に燃え上った。リンが緑の国の外に近づいている筈の黄の軍に合図を上げたのだ。連携がうまくいったことにレンは心の中で頷く。
閃光を発する花火が上がった瞬間、中庭のあちこちで音が動いた。
ミクが、あちこちに人を配置していたことにレンは気づく。
「やっぱり、ミク女王はリンを殺すつもりだったんだ!」
第一撃を避けたレンは周囲の音を素早く察知した。
次のレンの行動は素早かった。音に気を取られ、思わず周囲に視線を振りむけたミクに向かってレンは一気に踏み込んだ。勢いをつけたレンの体重がミクを草の上に押し倒した。
「ミク様!」
「バカ射るな! ミク様に当たる!」
とっさに判断したこれこそがレンの狙いだった。ミクにしっかり覆いかぶさり、周囲の射手を牽制する。
「近寄るな! 姿が見えたら即ミクを殺す! 」
レンは叫ぶ。小さく悲鳴を上げたミクを、一気にレンは馬乗りになって抑え込む。
「……ばかめ、どっちにしろ、ミクは死ぬんだよ! 」
心の中でつぶやいたレン。レンのまとったドレスのスカートの下で、ミクの足がもがくのを、自らの足で押さえつける。左手でミクの手首を一気にひねり、レンはドレスの帯から隠した短剣を引き抜いた。一気に勝負をつける気であった。
ミクは驚いた。正直、自分の力だけでも、十四歳の少女のリンなどたやすく押さえ込めると思っていた。しかし、ぶつかってきたリンの体は重かった。細身ではあったが、その固さと予想外の力の強さにミクは驚いた。
思わず痛みに悲鳴を上げてしまったが、ミクの思考はまだ冷静であった。ここは自分が少しだけ暴れて、黄の女王にのしかからせておけば、必ず配置した兵が黄色のドレスを目印に彼女を射殺してくれる……
その時、女の声が割り込んできた。
「ダメ――――――! ミク様を、放して!」
ハクであった。
震える手で短剣を構え、まっすぐにレンに向けていた。
「ハク! 」
ミクが叫んだ。
ミクを押さえたまま振り返ったレンの目が、いっぱいに見開かれた。
それは、レンの切ない思い出。青の国で出会った、白い髪を気にして、緑に染めていた彼女。レンには心を許して、そっと本来の色を見せてくれた。ずっと髪のせいで辛い思いをしていた事や、ミクに拾われて側仕えをしていることを教えてくれた。
その時の、ハクの表情を、レンは、心の奥底で覚えていた。
『……そのままの髪の色も、星の川のようできれいだろうな』
そう感想を述べたとき、ハクがわずかに頬を染めたことも、レンはずっと覚えていた。
今、月の光を受けたハクのすがたは、まさしくレンが夢想したとおりであった。月が隠した星の光を集めて、白く美しくレンの目の前に立っている。
「ハクさん……」
レンの唇を、声にならない驚きがすりぬける。
ハクは、ずっとふるえながらミクと黄の女王とのやりとりを見ていた。ミクが押し倒されたその時、黄の女王が腰帯のあたりから銀色に光るものを引き抜くのを、見てしまった。
『私を守るのよ? 』
ミクとのやりとりが脳裏で弾けた。
「ミク様!」
飛び出したのはとっさのことだった。自分に人を殺せるとは思わなかったが、刃を見せて脅せばよいとハクは黄の女王に迫ったのだ。
「ミク様を、放して!」
ハクの叫びに黄の女王が振り向く。
黄の女王が、ハクを見て動きを止めた。その、驚きの表情、そして、まるで森の中の湖のような、緑がかった青い瞳……
「あなた……」
ハクの唇が、その真の名を呟く。
「レン……」
レンがハクを見て力を緩めた、この好機をミクは見逃さなかった。全身のバネを使ってはね起き、レンの手から彼の薄い短剣をもぎ取った。レンが慌てて身を翻すところに、ミクが胸元でレンから奪った短剣を構える。
レンが鋭く息を吸った。向ったのは剣を構えたミクではなく、ハクの方である。
「ハク! お逃げ!」
ミクの叫びに、ハクはとっさに反応出来なかった。ハクが叫んでレンに向かって短剣を闇雲に繰り出した。
「っこの! 」
その瞬間、レンはハクの腕をとらえ、スカートをからげてそのままハクの腹を蹴り飛ばした。
「ぐぁっ! 」
ハクがうめいて地面を転がる。蹴り飛ばされたハクの手から、ミクから預かった短剣が離れる。
レンはその剣を拾いに走った。その背後からミクが、レンの背を刺し貫こうと狙った。
ミクが剣に反動をつけるその瞬間、短剣を拾ったレンが振り向いた。
ミクとレン、二人のつめた息が一瞬交わり、
……レンが、一瞬だけ、早かった。
振り向きざまに突きだしたレンの短剣が、ミクの左胸の下を深く刺し貫いた。
ハクの目の前で、彼女がいとしげに語った恩人のミクを、レンはまっすぐに刺し殺した。
爆発的に襲った痛みに、ミクはとっさに刺さった剣を押さえたが、レンがそれを引き抜く。
ミクは、自身の命が痛みに焼き尽くされて急速に消えていくのを感じた。
レンが短剣を引き抜いた。ところが勢いに負けてレンの手から短剣がすっぽ抜けた。手から離れたそれをハクが拾う。再び短剣をレンに向かって構えようとしたハクに、ミクはとっさに叫んだ。
「ハクお逃げ! 」
その時、ミクは視界に駆けこんでくる金色の姿を捕らえた。
「ネル!」
「ミク様!」
駆け寄ろうとするネルが何か言う前にミクは叫んだ。
「ハクを頼むわよ!」
「……ハイ!」
ネルがハクの腕を掴んで、夜の闇へと走り出す。ハクがその場を離れた瞬間、どすんと矢が降ってきた。ミクの配置した弓兵がレンを狙っているのだ。矢はミクの頬をかすめて地面に刺さる。池に数本の矢がかすめて飛び込んでくる。
レンはミクを掬いあげるように抱き上げると、池にそのまま飛び込んだ。
ミクを飛び来る矢の盾にするように構えながら水の中を泳ぎ、そのまま闇にまぎれていった。
弓を射かける兵隊から逃げ切り、レンは池の茂みの中にミクを横たえた。池の中で血を失い、ミクの顔は蒼白だった。
池からがぼりと足を引き抜き、レンも膝をついて荒く息を吐く。
「……ふ」
ミクの口が失血に震えながら笑った。
「何を、笑っているのですか」
「……あなた、良い度胸ね。……レン。さすが、ハクの惚れた男だわ」
レンがじっと押し黙る。
「ほら、こういう大事な時に黙ってしまうのは、やっぱり男よね。
リン様は、お元気かしら? 」
レンの手は、ミクを地面に降ろした時のまま、ミクの手を握っている。その細く白い手は意外なほど固く、濡れたせいだけではなく冷たい。
「……さすが、大きな国の王族ね。男のくせに、やわらかい手。……押し倒されるまで男だとも気付かなかったわ。……本当に、一生の不覚」
ミクの眉間がわずかに寄せられ、ミクの目が苦しげに細められる。
「……黄の国の賢王、その双子。……十年前くらいかしらね。私は孤児院でその話を聞いていたわ。私とはたった二つ違いで、お隣の国の話なのに、私と違ってその双子は、黄の国みんなから愛されていた。
……何だか、今夜やっと納得したわ。あなたたち、ちょっとすごいわよ」
ミクの瞳が、またすこし微笑むように細められる。痛みにあえぐ息が力み、言葉が絞り出されてゆく。
「私は、子供のころから何年もかけて、王になろうと覚悟したのに、リンもあなたも、私が青の国へと働きかけたたった十日たらずで覚悟を決めたのね。
王と王妃を殺して、王位につき、黄の国を背負う。責めているんじゃないのよ、ほめているの。なりふり構わず運命と闘える子は、好きよ? 」
と、その瞬間、ミクの全身から力が抜けた。
レンがとっさに抱き上げる。ミクの目は閉じられている。
ミクは、頬の筋肉だけで笑った。そして、血を失った唇を震わせた。
「……ねぇ。青の国で、成長したあなたたちと出会ってから、本当に感心したわ。その決断力、行動力。今私の知る中では最高だわ。」
ミクは残った力で、わずかに緑の瞳を開いた。
「……でも、知っているわよ。あなたたち、黄の国に居場所、無いんでしょう? 」
唐突に問われたその言葉に、どきりと弾かれたレンは、思わず地の声で返事をしてしまう。ミクが、細く開けた目を和ませて、言葉を継いだ。
「私が、居場所を、作ってあげるわ……そして、一緒に豊かな国を、作りましょう……私の、理想よ。すべての外れ者を優秀な家来に。そしたら、緑の国はもっともっと良くなる。
あなたたちは、私と一緒に、緑の国を、支えるのよ。そしたら、水も食糧も何でも、私が、」
「ミク、さま……」
レンが思わず息をのむ。ミクが瞳に優しげな光を湛えて、ため息をつくように微笑んだ。そして、心底楽しそうに、レンに告げたのだ。
「……ねぇ、レン。リンと一緒に、私の家来におなりなさいな? 」
そこまで絞り出したミクの瞼がついに糸が切れたようにとじられた。
「ミク、さま? 」
レンの口が、ミクの名を呟く。たしか、ハクも『家来になりなさい』と誘われたといっていた。
「ミク、さま……? 」
ミクの唇はやわらかく閉じられたままだ。ミクからの返事は、もう、無かった。
最後までミクは、女王として生きた。
レンはミクの手を地面に降ろした。そして数歩後ずさる。そして、わき目もふらずにその場を離れた。
最後まで、緑の女王としての立場を譲らず、さらに自分と交渉しようとしたミク。
何か取り返しのつかないことをしてしまった思いが、レンの頭を冷やし、その足をリンの待つ場所へと急がせた。
続く!
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